30周年史のために(2) 初任地の教会にて 関田寛雄

初任地の教会にて

関田寛雄

 青山学院教会という教会は青山学院というメソヂスト・ミッションの作った学校の歴史と共にある有名な教会であり、その教会の牧師は青山学院全体のキリスト教教育の責任者でもあった。
それ故この教会は歴代メソヂスト教会の有名な牧師が就任して来た。
私が伝道師として招かれてきた時、この教会の礼拝は200人以上もの出席があり、昔は神学部のチャペルであったその礼拝堂は立派なパイプオルガンと荘厳なステンドグラスを後にしたすばらしい祭壇付きのもので、入堂するなりその聖なる雰囲気に包まれるような思いになる。役員会の面接を受けた時も私は学生服で行った。背広を持たなかったからである。
主任の勝部武雄牧師と飯久保役員との話し合いで、私はその足で渋谷の東横百貨店につれて行かれた。洋服店に行って寸法を計られ、就任式に間に合うように背広が注文された。ネクタイを三本もらったが、結び方が分からない。そんな私であったが学院教会は私をとても歓迎して下さった。勝部牧師は戦争中、日本基督教団伝道部長という重責を担った、名説教家として知られた方であった。
しかし私はこの教会を一年で辞任してしまった。折角、紹介して下さった気賀先生には申し訳ない事をしてしまったのだが、やめた理由は二つあった。

一つは学院教会には私自身が今まで「先生」として師事していた方々がたくさんおられた、という事である。しかもその先生方が教会生活は殆どなされていないのである。そこには戦時中以来の学院と教会のあり方をめぐって色々な対立があっての事だと分かって来た。主任牧師はその解決に向けての努力はなさらず、当たらず触らずの姿勢であった。いきおい伝道師たる私が、その礼拝不参加の「先生」方を「牧会」する立場になる。これには参った。

今ひとつは、やはり学院と教会との複雑な関係に直面したからである。
ある日、礼拝堂脇の集会室に突然、教室用の机と椅子が運びこまれて、部屋を満たしてしまった。この集会室は学院教会の祈祷会が行われ、青年会や教会学校教師会の活動をする部屋であった。しかも翌日には、時の経済学部長大木金次郎教授が事務職員を連れて来て、「経済学研究室」という札を掛けてしまった。たまたまそこに居た用務員の方が「先生、ここは学院教会が使っていますが・・・」と言いかけると、「君は僕の言う事を聞いていればいいのだ」と怒鳴ったのである。私もたまりかねて自分が学院教会の伝道師である旨を告げ、このような動きについて教会としては全く知らされていないと述べた所、「ああそうかね、後で私の学部長室に来たまえ」と言って去ってしまった。

主任牧師も全く知らなかった。そして学院の院長、事務長、理事たちの含まれた学院教会役員会で問題にされる事もなく、どこかであいまいにされてしまった。教会の青年会やCSの教師たちと一緒になって主任牧師と話し合ったが、なぜかはっきりしない。
私は経済学部学部長室を訪ねて、抗議した。すると彼曰く「大体ね、学校法人の中に宗教法人が存在する事自体が間違っているんだ。そんなに言うなら、半分分けにして共用しよう」と。
数日後、「半分分け」の工事が始まった。出来上がったのを見ると三分の二は大学用、教会用は三分の一にして壁で仕切られていた。
私はこの時、この教会を辞任する決心を固めた。もっとほんとうに教会らしい教会へ行きたい、と心底そう思ったのである。


→ 30周年史のために(3)へ続く

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