30年史のために(3) 川崎桜本へ(関田寛雄)

川崎桜本へ

関田寛雄

 青山学院教会を辞任した私は、大学院に入学し青山学院高等部の聖書科教師の職を紹介され(この時も気賀重躬先生のお世話を蒙った)、これをアルバイトとして再出発した。

「教会らしい教会へ行きたい」という願いを持ちつつも私の模索は続いた。新約聖書の勉強のためには小塩力牧師の所に行くか、バルトについて教えて頂くために鈴木正久牧師の所に行くか、キリスト教学科主任の浅野順一牧師の所に行くか、と考えながらも日曜日が来ると足は赤岩栄牧師の代々木上原教会に向かっていた。その理由は何よりもキリスト教と共産主義を「綜合」しようと試みている赤岩牧師の姿勢に魅力を感じていたからである。『指』という月刊誌を発行し、会員の椎名麟三氏の含蓄のある文章も掲載して、多くの若い読者をも獲得していた。
朝鮮戦争後の東西両陣営の対立と緊張はますますきびしく、平和問題への関心が教会青年の心を支配していた時代であった。
結局、私は代々木上原教会の夏季集会に三回も参加した。
万岳楼という旅館で椎名氏を囲んで太宰治論を深夜まで語り合った思い出は忘れられない。

ある日浅野順一先生から呼び出しがかかった。川崎に開拓伝道を始めているので協力しないか、という話である。青山の神学生たちも参加しており、川崎の日本鋼管の職場聖研を毎月二回行っている鈴木正久牧師の援助もあるということを聞いて、私の心は決まった。
同じ大学院のクラスメイト、浜辺達男も参加しており、フェリス短大の土屋虎男先生(教団美竹教会員)も来ているという。こうして私は、1955年4月から川崎桜本一丁目にある町内会館で、毎日曜日夜七時半から始まる集会に出席し始めたのであった。
著名な旧約学者であり美竹教会牧師として多くの会員(当時200名位)を牧し、教団の常議委員会の一員として影響を与えていた先生が、川崎の下町で開拓伝道を始められたというので、毎回20名前後の人が集まっていた。(私の聞いた所では浅野先生は先ず鈴木先生に下町労働者伝道の意図をもらされたらしい。お二人は「月曜会」という、戦後の教団のあり方をめぐって戦争責任問題をも含めて教団改革をめざす会の会員であった。
戦後いち早く茨城県竜ヶ崎に農村の開拓伝道を始めた浅野先生は、更に都市の労働者伝道を志されたのであった。そこで既に川崎の日本鋼管で職場聖研を続けていた鈴木先生に相談された所、聖研出席者を通して、桜本の聖美保育園園長小川玉子姉 ― 川崎境町教会教会員 ― が紹介された。そこでその保育園で集会が始められた ― 1955年2月 ― がいろいろの事情でそこでは出来なくなり、市会議員でもあった小川姉により、桜本一丁目の町内会館の使用を斡旋されたようである。

集会は毎回熱気に満たされたものであり、特に浅野牧師の説教は出席者の心を捉えてやまないものであった。

30年史のために(4)「川崎桜本での25年」へ続く

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