30年史のために(5) 繆とよ姉のこと[1] 関田寛雄

繆とよ姉のこと<1>

 前号で言及した、私たちの家族が戸手に移動するに当って、「ある方の紹介で」と書いたのは繆とよ姉のことである。
戸手教会の前史にとって彼女の存在は欠かせないものである。繆(旧姓小宮)とよ姉について、彼女が折にふれて語ってくれた断片的な物語をつなぎ合せながら述べてみよう。

とよさんは七人兄弟姉妹の三番目に生まれたが1916年か17年頃、貧しかった家庭の事情で小学校を出るとすぐにある料理屋に下働きに出された。小学生の頃も手伝いのためにしばしば休むことがあり、教科書も入手できない事があった。
ある日教科書もなく辛い思いで教室に入り自分の机のふたを開けてみるとそこに教科書が入っていた。それは前年度のクラスの子が使い古したものであったが、とよさんにとっては嬉しい驚きであった。顔を上げて先生を見ると先生はにっこり笑って頷いてくれたという。先生の温かい配慮に接したとよさんはその女の先生の御恩を一生忘れないと言っていた。
後年、川崎に中華料理店を夫と共に営業し、生活も安定した頃、とよさんは老身を憩わせている先生のご自宅を訪ねて、本当に喜ばしい再会を互いに楽しんだとの事であった。
小学校もやっと卒業したような状況であったが、それだけに逆にとよさんは強い向学心というか読書欲というか、とにかくよく本を読み、しかもその内容を自分の生き方に結びつけて吸収する人であった。
第二次大戦中の真最中、近くの中華料理屋店の店主の妻が、乳飲み子を含む7人の子どもを残して逝去した。戦争中の中国(当時は支那と言った)は敵国である。日本人の友もなくこの一家は見る見る悲惨な状況に陥った。よく「男世帯に蛆が湧く」と言われるような事態になって
しまったらしい。当時の「支那人」を日本人は「チャンコロ」(チャン、チャンと闘ってコロ、コロと死ぬという意味)と呼んで軽蔑と差別の限りを尽くしていた。その一家の窮状を見るに見かねたとよさんが、ともかく子どもの面倒を見始めたのである。その一家は乳飲み児を含めて八人の子どもを抱え、父親は中国福建省出身で繆文燿(みゅう ぶんよう)と言い、大戦前に親戚を頼って来日し、中華料理店を経営し独立したばかりであった。とよさんはやがてその家に住み込み、本格的にその一家の主婦として働き始めたのである。
文燿氏との結婚式を挙げたという話は聞いた事がない。それどころではなかったのであろう。それは当時の日本社会の通念からすれば無謀としか言いようのない行動であった。学校でいじめられて泣いて帰ってくる子どもたち、中学に通っていた大きい子は度々、警察官(当時は巡査と言い、サーベルを腰に差していた)からも嫌がらせを受けたらしい。そのような子どもたちに対してとよさんは慰め、その心の傷を癒し、日本人に対しては毅然とした態度を示し、「支那人」の妻である事を誇りにこそすれ、恥じる事は毛頭なかったそうである。
このようなとよさんの行動の奥にあったものは、幼なき日、貧しさと差別に苦しんだとよさん自身の「痛み」の経験からの促しではなかったか。

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