30年史のために(11)開拓伝道基盤としての「戦責告白」[1] 関田寛雄

(3)敗戦後の模索
8月15日、敗戦。「軍国少年」は一挙に虚脱に陥った。
何も手につかない。学校へ復帰したものの当分は西宮市の焼跡整理である。
何体もの焼死体を掘り出した。
その頃から「真相はこうだ」というラジオ番組が始まったのである。
それは大本営発表の虚偽を暴いてやまないものであった。
1941年12月8日、輝かしい緒戦の勝利は1年も続かず、42年7月のミッドウエイ海戦で日本軍の主力は大きな損傷を受け、戦況は一挙に守勢に転じた。
国民の戦意喪失を恐れた大本営は、おぞましくも「連戦連勝」を訴えつづけたのであった。
インパール作戦の失敗、ガダルカナル島からの「転進」という名の退却、フィリピン戦線の行き詰まりと特攻作戦の開始、しかもその司令官はいち早く台湾に逃亡していたことなどなど、かつて「信じさせられていた」ことの虚妄に気付かされた時の「軍国少年」の絶望は深かった。
その絶望は、さらに二つの負目によっていっそう深められた。
一つは学徒勤労動員中の「班長」としての自らの言動への責任である。
同級生への督励の言葉は「神国大日本の不敗」と「大東亜共栄圏確立の使命」であった。
自らの言葉の虚妄を埋める何ものも持たなくなった「軍国少年」は、同級生の顔を避け不登校を続け、闇市をうろつき廻るほかなかったのである。そこで聞いた共産党指導者の演説は初めて聞いた「真実」であった。
獄中18年の中で節を曲げることなく今日あるを信じてきた徳田球一や志賀義雄らの天皇制批判は、身に染みて響いてきた。
今一つの負目は、キリスト教を自分の人生の「負の条件」とし、それから逃れるべく「軍国少年」の道をひたすら歩んできた自分の「自己同一性」の問題である。
本来的自己にどうして戻ることができるのか。
そしてその「自己」に戻ることなくしては私は戦後を生きることはできないのである。
世の中はみるみる反転し、「民主主義」化していき、新聞もラジオ番組も、また学校の教師や教会の牧師までもが、「痛み」なく変身していく様を見て、私の絶望はいや増しに深まった。
「自分は、自分の人生をどこからもう一度やり直すことができるのか」
闇は深く模索は続いた。   (続く)

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