信仰

本日、長女が受洗致します。その備えとして洗礼準備会を二人で持ちました。
何故洗礼を受けるのか?その問いに対し娘はたどたどしく語り始めました。そして彼女なりに自らの痛みに触れながら、その痛みに対する辛さと、イエス様を信じて生きて行こうとする思いが繋がっている事をその言葉の中に見た時、私は嬉しく思うと同時に、もうこの子は信仰的に私の手を離れたと悟りました。
親子であるが故、逆にそれは早かったのかもしれません。信徒は牧師に依存しがちで、そうであるが故に牧師に躓くものです。しかし牧師の成すべきことは、信徒とイエス・キリストを向きあわせイエス・キリストの神に依存させる事であります。親子関係にある親離れという作用によって、親ならぬイエスに向き合うことを促進させたのでしょう。それは根拠のない想像ではなく経験的なものです。意識的には、父親に依存するなどという記憶を持たない子ども時代に神に祈り神に依存することが私の信仰の原点でありました。だとするならば、私は子どもに頼りとされない口うるさい駄目な父親であったと総括すべきか、否、我が父は私を神と向き合うように誘った優秀な父であったと総括すべきか・・・。何れにしろ生きること、即ちそれは自分の十字架をどのように背負うか?それはイエス・キリストを見つめて自分の十字架を背負って歩むこと、これ即ち信仰を持つということであります。娘が信仰を持っている、持ち始めている、それを娘の言葉の中に見た時、嬉しく思いました。私が駄目親父であったか、我が父が優秀であったか、その原因はさて置き、信仰的には牧師であり父親である私に依存すること無く、立派に独り立ちしているその内実に触れた時、何だか父親ではなく牧師としてはじめて、ひと仕事終えたような喜びに満ち溢れました。経済的にはまだしばらく親に依存する日々は続きますが、信仰的には既に神に頼って生きている事を嬉しく思います。神の祝福と導きが豊かにありますように
孫眞實姉、受洗おめでとうございます。

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