聖霊の導き

先週、聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えました。キリスト者は聖霊の導きを信じて主の御後に従うものです。しかし聖霊の導きとは何でしょうか?

 使徒言行録によれば、五旬祭の日に、激しい音とともに炎のような舌が現れ、一同が聖霊に満たされたと報告されています。その描写は神秘的で、私たちの聖霊に対するイメージはそのような神秘的なものです。しかし神秘的であることを否定する訳ではありませんが、今ひとつ理性的に聖霊を捉えたいのです。

 その場にいた「一同がひとつなって集まっていると」と記されていますが、その一同は、ギリシャ語を話すユダヤ人とアラム語を話すユダヤ人が混在していました。これは本来ありえない事でした。ユダヤ人はその母語に従って異なる会堂で礼拝を捧げていました。イエスの十字架という事件が、本来あり得ない集合体を形成したのです。自己の救済(永遠の命)待ち望んでいた信仰が、イエスの死が招いた危機によって、言語の壁を超えて、互いに一つになろうとする力が働きました。私はこの力こそが聖霊であると受け止めたいのです。漠然とした一致や聖霊の導きという言葉ではなくて、キリストに従うが故に生じる危機が異なるものを一つにする必然を生みだし、そこで互いにその必然を神のみ心と信じ、その必然に導かれていく事、これこそが聖霊に導きではないでしょうか?

 しかし現実は、聖霊の導きを信ずと告白しながら、危機を避け、異なるものを排除しています。そして課題から目を逸らし安定を求めています。すなわち口では聖霊の導きを信ずといいながら、それを求めていないのです。

 繰り返しになりますが、聖霊の導きとは、キリストに従うが故に生じる危機が異なるものを一つにする必然を生みだし、そこで互いにその必然を神のみ心と信じ、その必然に導かれていく事、これこそが聖霊の導きであると私は思うのです。

 立ち退き後の教会堂を何処にどうのようにして建てるかという心配は確かにあります。これは確かに考える必要があります。しかしちょっとした油断が、いつの間にか危機を避け、安定を求めていってしまい、この河原に与えられた教会(ヨルダン寮)を、神は今日どのように用いようとされているのか?即ち神のみ心を見聞きする信仰が置き去られしまうのです。

 この川崎戸手教会は今日まで聖霊の導きによって生かされてきました。聖霊の導きを信じましょう。この多摩川河川敷に与えられた教会で礼拝を捧げていくということは、聖霊の導き無しに成し得る事では無い事を、心に、体に、柱に刻んで。

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