過去を裁く

 橋下市長が、何も間違ったことを言っていないという主張の一部分は正しい。確かに当時の軍や国家の意識を言い当てている。その点で彼は間違ったことを言っていない。しかし、沖縄の米軍兵士に風俗施設をあてがうという提案は、当時の認識を追認している。この点を世論は追求しており、橋下市長は必死になって弁明をしているが最早言い逃れは出来ない。
 しかし、キリスト教的に見て、後者の発言があろうとなかろうと、やはり橋下市長の発言には問題がある。
 その根本的な問題点は、彼には隣人の立場で物事を考えるという余地がない。「正しい」ことなら何を言っても良いのか?発言には意図があり、政治家なら尚更のことである。
「あれだけ銃弾が飛び交う中、精神的に高ぶっている猛者集団に必要なのは誰だって分かる」とする発言には、当時の日本軍兵士らの気持ちに立っているかのように聞こえる。しかしその性奴隷にされた女性たちは、その「必要だった」という言葉の前に物化され、人間としての尊厳を剥奪されている。
 人間は過去を裁く。その連続が人間を人間たらしめていくのではないだろうか。私たちも未来から裁かれる。当然と思っている事、悪気のないこと。そういった事を後の時代は裁くのである。当時はそういった倫理観であったから仕方ないとするのは、人間が人間になろうとする営みを放棄することに他ならない。
 ただ注意すべきは、裁くべきは先人の人格ではなく、犯した罪である。確かに国のために命を捨てた人々に鞭打つのは辛いことである。ある意味、戦時中に生きた人々はみな被害者である。たまたま私はその時代に生れなかっただけかもしれない。戦犯に問われた人々も、違う時代に生まれればいい働きをしたかもしれない。
 故に裁くべきは人格ではなく、犯した罪であり、しかしその罪はやはり人が償うしかないのである。
 しかしそれは人間が人間として成熟して行くためであり、故に裁きとは憎しみから来る復讐ではなく、過去の清算であり、未来を想像する和解であらねばならい。

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