韓国強制併合100年とキリストの教会 ―個的現場の視点から― (3)

2.川崎における教会形成

以上述べたことを前提に、私自身の牧会活動の中で経験した出来事を語らせていただきます。そのことは単なる「個人的経験」に留まらず、安炳茂先生の主張された「事件の神学」として普遍的使信となるものと信じております。

■李仁夏牧師との出会い

1955年に一伝道者として川崎市の桜本地区に開拓伝道を始めた私は、青山学院大学神学科のスタッフとしての立場もあり、現地の牧会に徹底することが不十分であったのみならず、現地における牧会的課題が明確でないままに時を過ごしておりました。小さな礼拝堂の完成(1957年)と共に現地に定住した私は、教会学校に来る在日韓国・朝鮮人の児童とその親たちとの接触の中から、この桜本地区が第二次大戦中、京浜重工業地帯に強制的に連行され、働かされていた人々およびその家族、4000人からの集住地域だということを知るに至りました。

1959年春、近くの在日大韓基督教川崎教会に李仁夏牧師が赴任して来られ、初めて李牧師の訪問を受けました。その時、新任の挨拶と共に求められたことがあります。それは長男を地域の小学校に転入学させる相談を校長としたとき、「日本人の保証人を立てよ」と言われ、その保証人を私に求めてこられたのでした。旧植民地出身者の教育を、日本人の保証人付きでするという、日本の学校の体質を知らされ、私は驚くと共に、日本社会における民族差別の事実に気付かされたのでした。

以来半世紀にわたり李仁夏牧師とともに牧会問題、人権問題をめぐって歩んできたことは、私の牧師としての生涯にとって貴重な成長の過程でもありました。李牧師への感謝は言葉に尽くせないものがあります。

■日韓合同聖餐式礼拝の中で

李仁夏牧師の提案で、私たちは毎年10月第一主日、すなわち世界聖餐日に合同の聖餐式礼拝をすることになりました。交互の会場を移動しながら礼拝を重ねている時、ある年、韓国教会での礼拝後、茶話会になり、ある在日の青年が発言しました。

「私はめったに教会に来ない。母と兄は熱心に来ているが、私が今日出席したのは日本人に質問したいからだ。日本人はなぜ、朝鮮人と見ると犯罪人扱いをするのか。私はそこの桜本小学校で5年生の時、クラスで給食費が無くなったということがあった。そのとき担任の教師は『お前がやったんだろう』と言い、私を残して教員室に連行した。私には関係のないことなので、私は否定し続けたが、『だいたいこういうことは朝鮮人がやるんだ』と言われ、その後、夕暮れの校庭を独り帰宅した。そのとき思った。もう金輪際、学校なんか来るものかと。でも分からない。なぜ日本人は、我々を見ると犯罪人扱いするのか」

その時、和やかな雰囲気が一挙に氷のように凍てついたようになりました。彼の兄が立ち上がり、弟に向かって「何を言うんだ。日本人のお客さんたちの前で何を言うのか。ぐれたお前がいけないんだ。

ぐれないで日本人に恥ずかしくないように勉強して働けばよかったんだ」と、日本人の手前、弟を叱りました。弟は苦笑いしながら、「兄貴はいつも優等生だからな」と言ってその場はお流れになりました。

しかし、私の心には弟の言葉が刺のように刺さったままでした。彼はその後、登校していません。警察にもお世話になったと言いました。日本社会にある民族差別が、このように在日韓国人のひとりの少年の人生を狂わせてしまったのです。

次の年の礼拝は、私どもの日本の教会で行われました。礼拝後、二人の青年(韓国人と日本人の学生)が問題提起をしました。「10年余も続けられているこの合同聖餐式はどういう意図で行われているのか。『一つ主の体、一つ主の杯』と言いながら、この二つの教会を囲んでいる地域の民族差別をどう受け止めているのか」と。その問題提起に私は絶句せざるを得ませんでした。日韓両教会の単に親しい交わりを楽しむという段階でしかなかったこの聖餐式礼拝が、その本質をきびしく問われたのです。

やがて李牧師、続いて私も発言し、この両教会の礼拝がこれからこの地域における民族差別や人権問題を意識的に受け止めて、その克服を祈る内容へと変革し、新しく再出発することを約束して、集会は終わりました。これは、この地に教会形成をするに当たって、私の意識が根本的に変えられた出来事であり、牧会者としての私の新しい出発にもなったのです。

つづく

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