韓国強制併合100年とキリストの教会 ―個的現場の視点から― (4)

関田寛雄

 ■日立就職差別裁判闘争をめぐって

1970年から始まり、4年間の裁判の結果、全面勝利を得た朴鐘碩氏のことは様々な形で報道され、その経過は周知のことであるので、ここで私は詳述いたしません。ただ、ここで述べたいことは裁判に勝利した後の、在日大韓川崎教会における感謝礼拝の時のことです。一連の経過報告の後、教会のある長老が立ち、語ったことが忘れられません。彼は言いました、「私はこの裁判には初めから反対していた。ともかく韓国人が日本人相手に裁判したところで、勝ったためしはなかった。だから負けるのが分かっているから、やめろ、やめろと言い続けたのだ。しかし今日、こんな日を迎えて私は驚いている。そして言いたい。若者たちよ、よくやった。ありがとう」と頭を下げました。年老いた長老が若者に頭を下げたのです。その時、啜り泣く声が礼拝堂に広がりました。

それこそ、在日の新しい時代の夜明けの瞬間でした。もう「泣き寝入り」の時代は去り、自立と自主の在日の時代が始まった、と私は思いました。この時の礼拝堂の半分近くは日本人の若者たちだったことも、印象深い場面でした。そして在日韓国人と日本人が一緒になって、涙と共に歌った「We Shall Overcome」の響きは礼拝堂に満ち溢れるものとなったのです。

■多摩川河川敷に立って

1970年、全国に吹き荒れた大学紛争の影響で多忙を極めた私は、協力者として韓国留学から帰国したばかりの沢正彦伝道師を私の教会(桜本教会)に迎えました。間もなく結婚された金纓姉もご一緒でした。3年後、韓国神学大学の招きでお二人は赴任され、その後、藤原繁子牧師を迎え、さらに3年後、私は同じ川崎市を流れる多摩川の土手近くに第二の開拓伝道を始めました。妻が地域への奉仕として障害児児童保育の無認可「こひつじ保育園」を開設し、自宅を開放して集会を始めました。

ある婦人が訪ねて来て、「私は韓国人ですが、この保育園に入れますか」と尋ねました。その背景には他の保育園で入園を断られた経緯があるようでした。満員のためか、異国籍の理由でかはさだかではありません。ともかく「こひつじ保育園」はその男の子を受け入れ、当然のことながら本名(民族名)で受け入れました。このことがこの家族との深い絆が結ばれるきっかけとなったのです。

多摩川の土手近くの戸手という地に移ってきて知ったことは、この川の河川敷に400人余の在日韓国・朝鮮人が集中して住んでいることでした。河川敷は建設省の管理下にあるので、いわば「不法住居」です。この部落の起源は、大戦中、羽田飛行場に強制連行されて働かされていた韓国人たちが、戦後、米軍が入ってきて48時間以内に立ち退くことを要求されたのです。日本人も同様に立ち退きを要求されたのですが、韓国人は日本社会に身の置き場がなく、やむなくここに移動して来たのです。本来ならば日本政府が居住地を提供すべきなのですから、どうしてこれを「不法住居」と言えるでしょうか。

ある日、先述の入園児の母親が訪ねてきました。「聞いて下さるだけでいいのですが」と言って語ったことは次のような話です。この居住地にある月賦販売会社がセールスに来て、在日の婦人たちに、健康のためによいと言われる磁石つき布団の宣伝をしました。この時、購入の契約書にこの母親は他の婦人と同様、夫の通名(日本風の)を記しました。後日、会社から確認の電話があり、夫とともに妻の名も聞かれたとき、彼女は韓国から再婚で来日して間もなくで、本名(民族名)で答えたところ、国籍を問われ夫の国籍も問われました。半時間後、会社から再度連絡があり、外国籍を理由に、一方的に契約の打ち切りを申し渡されました。たまたま彼女だけが本名を名乗ったことで契約を切られた悲しみを打ち明けられた時、私は即座に電話を通してこの会社に抗議しました。

彼女の夫は、巨済島から強制連行されて博多に来て、陸軍の防空壕掘りの労働をさせられました。解放後、知人を頼って川崎に来て、古タイヤの回収業をしていたのです。私の抗議によって翌日、会社の担当者の2名が謝罪に来て、契約の継続を申し出ました。その時、この妻は夫の本名で契約することを主張しました。ところが、傍らにいた同胞の婦人たちが言いました。「日本人がここまで謝りに来ているのだから、通名で契約したらいいんじゃないの。在日の同胞は皆、本名と通名で生活しているのよ。それが在日の常識なのよ。あんたは自分の子を本名で保育園に通わせているけど、後々苦労するわよ。今のうちに通名に変えなさいよ」。この言葉に、かの妻は切れました。「何が常識なのよ。私が必死の思いでわが子を本名で通わせているのを、同胞ならば応援してくれてもいいはずよ。なんで本名を恥じるのよ。もう皆帰ってちょうだい」と。

こうして同胞の中で孤立してしまった彼女と私は毎週水曜日の朝、彼女と話し合いの時を持ちました。そして彼女から初めて聞く韓国の歴史を学びつつ、私は聖書からの慰めと希望の言葉を彼女に伝えたのです。1年後、彼女は李仁夏牧師から洗礼を受け川崎教会の一員となりました。

その後、彼女の一家は河川敷を離れ、中古一戸建て住宅に移り、今までの住宅を私どもの戸手教会が購入し、現在もここで礼拝と集会を続けています。夫は熱心に礼拝に出席し、やがて洗礼を受け、数年後、ガンを病み召されて行きました。多摩川の洪水で床上浸水を何度も経験し、同じく泥をかぶりながら、私は在日韓国・朝鮮人との交わりを深めてまいりました

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