韓国強制併合100年とキリストの教会 ―個的現場の視点から― (6)

3.韓国強制併合100年の歴史の証言―その個人史的出会いの中で―

韓国強制併合100年は、私にとって全く身近な人々との出会いを通して、その苦難の証と日本人の罪責とに直面させられる歴史でした。

■「三・一独立運動」を憶えて

前述のように私たちの川崎戸手教会は多摩川河川敷にある礼拝堂で集会をしていますが、ある夏の日、多摩川の洪水でこの地の在日韓国・朝鮮人の家屋は全て床上浸水を経験し、住民はすべて土手に上って避難しました。その時、礼拝堂の3軒隣りの足腰の不自由な老婆を背負い、胸まで来る水を掻き分けながら私は土手に駆け上がりました。彼女は娘と二人の孫の四人暮らしでしたが、このことがきっかけで親しく話すようになりました。そしてあるとき、驚くべき話を彼女はしてくれたのです。

彼女は光州の生まれです。そして1919年の三・一運動が光州に広がり、多数の民衆が「ウリナラ・マンセイ」を唱えながらデモをしていた時、騎馬の警官たちが駆け付け抜刀して先頭の数名を切りつけました。何の武器もなく素手で旗をもつ先頭の男は倒れ、民衆は「アイゴー」と叫びながら四散して行きました。この老婆はその時6歳だったが、物陰からはっきりその光景を見ていたのです。

「自分も光州の教会に通っていたが、その日若い女の先生が指を切って白い壁に血で『ウリナラ・マンセイ』と書いていたよ。あんなに恐ろしいことはなかったよ」

淡々と語るこの老婆の物語に、私は言葉を失いました。戸手教会のすぐ近くに、三・一運動の生き証人がいたのです。しかもこの老婆の孫二人が今、戸手教会の教会学校に来ているのです。なんという神の導きなのか。私は涙を押さえることができませんでした。数年後、彼女は家族に囲まれながら異郷の地、日本で帰らぬ人となりました。

■関東大震災朝鮮人・中国人殺害を憶えて

川崎のある集会で関東大震災に関わる、『隠された爪跡』という記録映画に出会いました。それは1923年の震災後に発生した、全く根拠のないデマに踊らされた日本人市民による6000人余の在日朝鮮人虐殺の跡を辿る、生き残った一人の人と日本人との対話と現場訪問の記録でした。東京の下町のあちこちの、かつての「現場」を示しながら証言を続けるこの人は、当時子どもであったが日本人の鳶口(建築の時につかう大工の道具)で足を傷つけられ、今なお足を引きずりつつ歩かざるを得ぬ人でした。

しかし最後は、江戸川の土手で二人は「こんなことは二度とあってはならないことだ」と言って、涙の握手で終わりました。赦し赦される二人の握手は、私の心に今も深く残っています。

その後、日本キリスト教団出版局刊の『信徒の友』2003年9月号に「そのとき何が起こったのか」と題して、大震災80周年に際し、あの虐殺事件を覚えるための記事を書きました。資料を調べている中にこの事件が「三・一運動」と深くかかわっていることがわかり、その経過をここに述べておきたいと思います。

先に「全く根拠のないデマ」と言いましたが、それは日本政府の高官の手によって意図的に流された「つくられた情報」だったのです。すなわち震災(1923年9月1日)の直後、時の警視総監・赤池濃は翌日、正規の手続きなしに戒厳令を布告します。ただちに軍隊が東京と隣接5郡に出動します。また最高責任者たる内務大臣・水野錬太郎は、赤池とともに三・一独立運動を弾圧してきた張本人です。水野は1919年朝鮮総督府の政務総監、赤池は同じく総督府の警保局長だったのです。彼らによって流された「情報」の内容は以下のようなものでした。

「東京付近の震災を利用し、在留韓人放火、放弾、その他の不逞手段に出んとする者あり……」とか、「鮮人は各地に放火し、不逞の目的(独立運動?―筆者注)を遂行せんと既に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎ放火せる者あり……」と全く事実無根のデマがまことしやかに述べられているのです。

さらに「この際、町村当局者は在郷軍人会、消防隊、青年団と一致協力して……」とあり、市民はパニックに陥り、自警団を組織し、とび口、鍬、鎌などで武装し始めたのです。こうして、軍・官・民による朝鮮人虐殺がいわば「意図的」に行われたのです。その流れの中で中国人も500人が殺されました。その中には王希天のようなメソジスト教会幹事、YMCA幹事であり、賀川豊彦や山室軍平と親交のあった人も殺されました。

この「つくられた情報」、デマを流した者たちが共に「三・一運動」の弾圧者であった点は、重要です。彼らは運動を弾圧し多くの朝鮮人を殺害したことで、「負」の意識を持ったのです。それは朝鮮人への警戒心と敵意を生み出し、「やられる前にやっつけろ」という身構えを誘発したことでしょう。それはまた多くの日本人の意識下の意識であったと思います。そして自らつくりだした「情報」に、軍も官も民も踊ってしまったのです。「罪は罪を生む」という結果になりました。疑心暗鬼は悪魔のささやきに他なりません。

しかし、ほんの僅かながら横浜市鶴見警察の大野署長のように、この混乱の中で朝鮮人を保護し続けた人もいることを憶えておきましょう。鶴見のある寺院には、小さいながら朝鮮人による顕頌碑があることを付言しておきましょう。

■松代大本営造築を憶えて

戸手教会の立つ多摩川河川敷の在日韓国・朝鮮人の集落の中で親しくなった男性Iがいます。彼は朝鮮総連の元社会部長でしたが、組合の寄り合いなどで心を開いて語り合う友人になりました。あるとき彼は沈んだ声で「俺のアボヂはな、松代で死んだんだよ」と言いましたので、詳しく話を頼んだところ、次のようないきさつを話してくれました。

第二次大戦の末期、日本の敗色が明らかになったころ、日本政府は米軍の本土上陸を予想して、天皇一家と大本営を、信州の象山をくりぬいた地下壕へ移転することを画策しました。そのため急遽8000人余の朝鮮人労働者を強制連行し、情報の秘匿のために人目につかぬよう、貨車で何度も象山に運び、突貫工事で松代大本営の造築を急発進したのです。

その労働者たちの中に、Iと彼の父もいたのでした。父は労働者のある班の班長を命じられていたのですが、ある晩、彼の班から二人脱走者が出たというのです。その厳しい労働状況と食糧不足のため、いくつもの脱走事件もあったようです。Iの父はその班長としての責任を問われて、日本人の監督やその手下の者に散々な暴行を受け、挙句の果てに氷の張ったドラム缶に頭から突っ込まれたそうです。自力で這い出してみたものの、その夜、何かよくわからないことを呟いていたが、朝、姿が見えないので探し回ったら、便所で首を切って死んでいたというのです。

「本土決戦」「一億玉砕」などという掛け声で当時国民を指導した軍部は、天皇一家と戦争作戦本部たる大本営は最後まで残し、国民は全滅するまで戦うべきと考えていたのでしょう。そのような天皇絶対主義の圧力の中で、松代・象山で死んでいった一人の朝鮮人の息子が、戸手の集落の間近な住民であるという事実に、私は韓国強制併合をめぐる日本政府の罪深さと、その日本人の一人であるという事実に、言葉に表し得ない負い目を感じているのです。

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