韓国強制併合100年とキリストの教会 ―個的現場の視点から― (9) 関田寛雄

【最終回】

在日外国人の人権確立に向けて

私の牧会の現場であった川崎市においては、李仁夏牧師を中心とする運動の成果として、川崎市教育委員会の「川崎市在日外国人教育基本方針」(1986年)をはじめ、「川崎市在日外国人市民会議」という、外国人が直接、行政と対話できる窓口が設けられて来ました。ある意味で川崎は全国的にも在日外国人の人権に深い関心を持つ地方自治体として知られています。

しかしながらその実態は、決して満足するべきものではありません。たとえば全国に先駆けて外国人の公務員採用というシステムが開かれたものの、なお、国籍条項を理由に182もの職域制限が行われています。すなわち税務課、消防局などにおいて働くことはできません。その理由は「公権力行使は日本人に限る」というのです。しかし、地方自治体で公権力の行使は自治体の首長たる市長であり、その下で働く外国人がどうして公権力行使を理由に排除されるのでしょうか。このような例は他の自治体にも多く見られる事態です。何よりも国籍を理由にする差別の撤廃を実現しなければなりません。

そのためにも「外登法問題と取り組む全国キリスト教連絡協議会」(外キ協)が長年提案してきている「外国人住民基本法」の成立を実現しなければなりません。人間として憲法に規定されている個人の人格的尊厳性と生きる権利を保障し、入管事務所等で現在行われている外国人収容の非人間的取り扱いを一日も早く改善する努力を続けていきたいと思います。そして在日外国人が自らの生活を自ら自己決定できるように、地方自治体への参政権を至急に獲得すべきでありましょう。

かつての指紋押捺拒否運動に見られた日本政府の法体系への問題提起は、日本に対する非難ではなく、李相鎬氏の述べたように日本社会への「ラブコール」であり、共生を願う外国人の熱い期待の表現に他なりません。それに応えて共に闘い続けましょう。

■憲法第9条の国際化に向けて

わが日本国はアジア太平洋地域において2000万余、国内において300万余の戦争犠牲者をもたらした末、敗戦を迎えました。韓国強制併合100年を迎えるに当たり、日本が平和憲法、なかんずく第9条を含む憲法を採用したことの意味は、なんとしてもこの間における戦争犠牲者の死を空しくしてはならないとの悲願の促す決断であったと私は思います。非武装国家の建設という選択は、戦争をめぐる罪責の告白と共に、「諸国民の公正と正義に信頼して」の謙虚な決断であったはずです。しかるに「6・25」(朝鮮戦争)以来の米占領軍の対日政策の変化、講和条約締結後ただちに復活した軍人恩給制度、自衛隊の発足、元号法、建国記念日、靖国神社問題、教科書裁判などを経て、今は国旗・国歌の式典における強制というように、戦前回帰を続けています。

しかし、事態がこういう流れにあるからこそ、私たちは憲法9条の普遍化・国際化を提唱します。憲法第9条の規定する「陸海空軍その他の戦力」の放棄の項などは一挙に国際化・普遍化は現実的でないかもしれません。しかし、第9条の意味するところ、その精神は、国際的対話尊重であり、これは普遍化できると信じます。

米国のM・L・キング牧師の非暴力抵抗運動と対話の方法は、黒人解放をもたらしました。金大中元大統領の太陽政策は、金正日総書記との対話を実現し、南北統一に向けての夢を近づけました。しかし、ブッシュ前大統領の「9・11」をめぐる疑心暗鬼から「報復」としてのイラク戦争は始まり、この理由なき戦争はいまだ終結を見ません。疑心暗鬼こそは戦争へといざなうサタンの囁きに他なりません。今日、韓国強制併合100年を意味あらしめるとすれば、唯一、憲法9条の「こころ」である不戦の決意と誠実な対話を継続することを普遍化・国際化することではないでしょうか。

私は思います。誠実な対話のプロセスを維持しようとしても、時に無視、圧力、妨害その他によって中断せざるを得なくなる場合もあることでしょう。しかし私たちは、使徒パウロと共に、決意したいと思います。「私たちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」(■コリント4・8~10)。そしてこの対話主義こそ、「三・一独立宣言」の「こころ」でもあったのではないでしょうか。

その意味で私たちは、平和と共生を求めての「対話をやめない」、そしてこの運動の「土俵を割らない」、そして最後にどんなことになっても「希望を捨てない」と、三つの「ない」を宣言して私の発題の終わりといたします。

結び―良き変化の担い手としての教会

主イエスキリストにより「地の塩・世の光」として遣わされている私たちキリスト者は、この世の政治・経済・教育などの文化の世界を「場」として生きています。福音の宣教・伝達とは、具体的な「善き変化」の事実を、たとえどんなに小さくとも「善き変化の事実」を創ることであると思います。その「事実」が叫び、言葉を発し、福音を証し示すに至るのです。「地の塩」も「世の光」も、善き変化をもたらす働きの故にそう呼ばれているのです。私たちキリスト者はこの「善き変化」のための、神のエイジェントであるのではないでしょうか。

(せきたひろお/青山学院大学名誉教授、日本基督教団巡回牧師)

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