神学校時代のこと。
農業概論で「化学肥料」について学びました。それは窒素、リン酸、カリという成分から構成されているらしく、これらは植物の生命に関わる基本要素だということです。したがってこの化学肥料を農作物に与えると即効的にその成長を高めます。
しかしこの化学肥料には致命的な欠点が伴うとも学びました。化学肥料は農作物に有効ではありますが、しかし彼らには有害な虫たちを呼び寄せてしまい農薬が必要になります。したがって化学肥料は農薬とは縁を切ることの出来ない関係だという事です。
最近そんな事を思い出し、畑仕事を子育てにたとえてみました。子育てにとって規則や躾等が化学肥料のように思えました。しかし、化学肥料を用いると必然的に農薬が必要であるように、規則は同時に罰則を生みます。
さて神学校時代、農業実習では「有機農業」を実践しました。指導講師のもと、枯れ葉や雑草、牛糞などを用いて堆肥をつくりました。時間と労力を使う割には、即効性がありません。出来栄えも、化学肥料を用いたものと比べ不均一で見てくれも格好も良くありません。しかし農薬に依存する事のない美味しくて健康な作物を作ることが出来ます。
私は少し厳しく育てられました。規則と罰則で育てられました。即ち化学肥料と農薬で育てられました。そのかいあって、人前での礼儀作法や「一般常識」も身につきました。しかし50歳になって、それが何であったのか?疑問を抱いています。見てくれは整っていても中身は農薬で汚染されている作物と同様、内容のない自分と、他人の外見ばかりに関心を寄せ内面を見通せない薄っぺらい人間に育ってしまいました。
今思うことは、我が子には化学肥料は使うまいと・・・。規則と罰則で人間は育たない。それなりの見てくれは整っても、中身がない。
これからは化学肥料ではなく、有機肥料を用いたいと思います。しかし子育ての有機肥料とは何なのか?それがまだ分かりません。これから探して行こうと思いますが、取り敢えず、忍耐を持って、型にハメることは放棄しようと思います。
大根は真直度、太さ、長さ、形の規格が定められています。人間に例えるならそれは社会性というものかも知れません。しかし、曲がっていても、細くても短くても、先っぽが二股になっていても、美味しくて栄養のある大根が人間の舌と健康に良いように、我が子には中身のある人間に育って欲しいと願います。
もう規格にハメるのは止めました。私自身も規格に収まろうするのではなく、有機肥料から栄養をもらって、これから家族と一緒に成長できればと思います。しかしその有機肥料とは何か?更にはその有機肥料によって育った中身のある人間とはどんな味がするものなのか?残念ながらまだ分かりません。今まで当然と思っていたものが瓦解し一から、否五十から積み上げ直す思いであります。毎週、説教壇から聖書の御言葉を語ってきた牧師としては情けない話ではあります。
しかし、有機肥料について、今ひとつだけ言えること。それは手間がかかり、即効性がないもの。取り敢えず、それが今の手がかりで御座います。