クリスマスを祝う

クリスマスの何を祝うというのでしょうか?それはキリストの誕生であります。しかし地は混沌であり、闇が深淵の面を覆っている昨今、それを見つめること無くキリスト降誕を祝うなら、駅前のクリスマスセールとどの程度違うというのでしょうか。

しかし、闇の中に光を投じた神の啓示がクリスマスであるならば、今まさにクリスマスを祝うに相応しい時と言えましょう。「地は混沌であり、闇が深淵の面を覆っている」からこそ、キリスト者はクリスマスを待ち望みそれを祝うのであります。

それは希望であります。信仰という不確かなものに確実に保証された希望であります。この希望を与えられた事を喜ぶのであります。しかしその喜びは楽観的なものでも、理性の放棄であってもなりません。

神は御心をナザレのイエスによって受肉されました。故にこの希望も受肉してこそ・・・であります。

神奈川朝鮮学園は真に辛い年を越そうとしております。県の補助金6400万円、川崎市の補助金840万円。全額見送られました。例えば、この一つの事実に向き合いクリスマスの希望は如何に受肉すべきものであるのか?考えたくもない重く暗いものであるかも知れません。しかしキリスト降誕の物語は、まさにその重く暗い中で、物語られ、聞かれ、語り継がれてきました。光を待ち望むものは闇の存在を無視することは出来ません。闇に覆われているからこそ光を求めるのです。故に、クリスマスは闇を語ってこそクリスマスであります。そして光とはその闇に抗うものであります。

光を放ちましょう。闇に向かって希望の光を放ちましょう。その狼煙こそがクリスマスを祝うという事ではないでしょうか。

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