ニネベに住むトビト、メディアに住むサラ。二人とも「死んで辱めを耳にすることのない方が、生きて大きな苦しみに遭うよりましである」と神に祈りました。トビトは失明し、サラは7人の男に嫁ぎながら、全てその日の内に夫を失ったのです。
二人の祈り(悲しみ)は聞き入れられ、神は救済を計画し、トビトの息子トビアを通じてトビトとサラは互いに救われます。即ち悲しみに満ちた者同士を引きあわせて互いを救うという業です。
一般的に救済物語には、救う者と救われる者が登場します。もちろん救済を計画したのは神ご自身ですが、トビト記の神が救済に用いたものは互いを知らない悲しみに満ちた者同士でした。
トビト記は、BC200頃に書かれた文学です。メシアが未だ訪れぬ時、苦しみと悲しみを抱えた者同士を用いて神は御心を行うという、当時の信仰の表れであると思われます。
毎週水曜日の高齢者サロンの営みは10年になります。最初は奉仕される高齢者と奉仕するボランティアという関係性から始まりました。しかしボランティアにもそれぞれ重荷があり、その重荷を高齢者たちとの出会いと交わりによって癒やされる場面も少なくありませんでした。
そしてキリスト自身も貧しいものとなられ、貧しいものとの出会いの中で、互いに癒し癒されました。キリストの誕生に備える待降節に、トビト記のメシアを待ち望んだ信仰に学びたいと思います。