恐らく我が子を朝鮮学校に入学させていなければ、補助金問題は人事であったと思います。
この問題が、外交、民族教育、多文化共生、等などの問題である以前に、保護者としてそれは学費の問題です。教師にとっては給与の問題です。即ち生活の問題です。とどの詰まり、立ち位置というものが、その人間の見え方や感じ方、生き方を決定づけるのかも知れません。
確かに、本来人間はそうであってはいけないのかも知れません。たとえ立ち位置が異なろうと、学ぶ事の出来る人間は、その学びによって痛みを共感できる存在へと成長していくものでしょう。しかしそこには程度の差はあれ、やはり「背に腹はかえられぬ」限界を人間は持っており、持っているから人間であるとも言えます。
一部の諸説によれば腹とは自分で、背とは他人を指しているとの事です。人間は背に腹はかえられぬ存在です。しかし宗教というものはそれを乗り越える事が出来ると信じたいのです。聖書の「隣人を自分のように愛する」という信仰が時には、背に腹かえる自己超越をもたらすものであると信じたい・・・ですが、残念ながらそれも怪しい限りです。
ならばいっそうのこと、己の弱さと限界を潔く認め、自らの信仰によって、その立ち位置を選び取るぐらいの者ではありたものです。
即ち、キリスト教信仰(又はキリスト教教育)なるものが、人間としての見え方や感じ方、生き方を決めるのではなく、やはりその人間の立ち位置が「背に腹はかえられぬ」弱さゆえに、そのように見え、あのように感じ、このように生きていかざるを得ないのではないでしょうか。
ようするに、教会に来て聖書を勉強したら「正しい」人間になれるのではない。信仰というものが、その人の見え方や感じ方、生き方を変革していくのではない。ならば、信仰とは何か?信仰なるものに如何なる意味があるのか?もし信仰に意味があるとするなら、否、信仰なるものが存在するなら、それは、その立ち位置を選び取らせたもの、言い換えれば誰と共に生きるかを選択させたもの、象徴的に言えば、戸手の堤防を越えて来させたもの、それは信仰によるものであった、というぐらいは言っても、言い過ぎには当たらないと思います。そしてその信仰が選びとった立ち位置が、私にはそのように見させ、あのように感じさせ、このように生きさせるのでしょう。
恐らく我が子を朝鮮学校に入学させていなければ、補助金問題は人事であったでしょう。
これは負けよしみではなく、今では心からそう思う事ですが、私はこの日本に朝鮮人として生まれて本当に良かったです。そして我が子を朝鮮学校に入学させて本当に良かったと思います。