約束

例えば、復活が希望であるなら、十字架は真実です。

十字架によって、神の真実が明らかにされました。

聖書が示す真実とは「自らを完全に捧げる」ことです。しかし、だとするなら、人間に真実はありません。

そして十字架は敗北です。自らを捧げ敗北する。それが十字架であり、神の真実です。

 人間はそのような道を歩むことなど出来ません。しかし復活が、そこに希望を与えています。十字架で終わりではなく、その先があるのだと言ってます。

 十字架は、神の真実を明らかにし、即ち人間の罪を明らかにして終わりではなく、それを経てこそある復活の希望が用意されております。十字架は真実であり復活は希望であります。

 ならば、クリスマス(降誕)とは何でしょうか?

それは約束であります。

キリスト者は常に、旅の途上にあります。十字架への途上にあります。その先にある希望を信じて歩む途上にあります。即ち、十字架と復活は、現在と未来に開かれたものです。

 しかしクリスマスは過去です。常に過去です。

私たちの信仰の旅路において、十字架と復活は、常に、未来へと開かれたものであり、クリスマスは既に与えられた約束。インマヌエルです。

 救い主は確かにお生まれになった。そしてその名はインマヌエル。神我らと共にある。この約束こそがクリスマスのメッセージです。

 復活(希望)なくして、十字架(真実)の道は歩めません。しかし人間はそれほど強くはありません。果たして希望を信じて、それだけを信じてさえいれば真実の道を歩み通せるでしょうか?

 そこには寄り添ってくれる存在、その約束あってこそではないでしょうか。ただ、真実と希望を指し示すに留まらず、この現実を共に生きて下さる約束が与えられてこそ、具体的な、一歩を踏む出すことが出来るのではないでしょうか。

クリスマスおめでとうございます。その祝いの挨拶は既に与えられたものとして、主が、インマヌエル、神我らと共におられること。これは、既に起こったことであり、その起こった事実が、今もなお、ここにあること。この約束があってこそ、復活の希望を信じて、十字架の道を、七転八転、三歩進んで二歩下がる・・・

そんなよちよち歩きだけど、騙し騙し、歩んでいけるのだと思います。

 救い主は、お生まれになった。既に生まれたということ、そして共におられるということ。その約束を与えられていることを、共に喜び祝いましょう。

そして、神が私たちの隣人として、隣人を通て、我らと共にいてくださるように、我らも、誰かの隣人になって参りましょう。

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