「ああ、わたしは災いだ。わが母よ、どうしてわたしを産んだのか。」(エレミヤ15:10a)
この叫びは、予言者エレミヤの苦渋に満ちた生涯を象徴しています。「若者に過ぎない」と神の召しを拒否して尚、押し付けられた予言は「お前を敵の奴隷とし、お前の知らない国へ行かせる」(15:13)というイスラエルへの審判予言でした。この故にエレミヤは「国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている・・・だれもがわたし呪う」(15:10b)ものとなり孤独に苛まれます。
そして遂に「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえなのですか。あなたはわたしを裏切り、当てにならない流れのようになられました」(15:18)、とその怒りの矛先を、自分を召命した神に差し向けました。これ程までに自らの生を憎み、神に怒り発した予言者を私は知りません。
この予言は、エレミヤの大予言者としての評価を貶めるものとして読者に映るかもしれません。しかし大予言者エレミヤにして、神に弱音と愚痴を吐き、ましてや怒りの言葉さえ突きつけるその描写に接する時、ある意味慰めを与えられるものです。
族長ヤコブも若かりし頃、兄エサウと和解するために会いに行く途中、ヤボク川の渡しで神と格闘し必死にすがって祝福を勝ち取りました。
実は神との対話はかくも激しいものなのかも知れません。理不尽と矛盾に満ちた世界で正直者が馬鹿を見るような道を指し示され、その志が瓦解してしまいそうな時、理性の放棄と思考の停止で闇雲に「信仰告白」して逃げる(信仰の領域を保持する)のではなく、はらわたをひっくり返して、神に「何故ですか」と抗議してみてはどうでしょうか。神は生きておられます。生きておられる神は、生きている者の神であられます。きっとその先に、生きた神の言葉があると信じます。
「わたしがあなたと共にいて助け、あなたを救い出す、と主は言われる。わたしはあなたを悪人の手から救い出し強暴な者の手から解き放つ。」(15:20b-21