人の話を聞く

先週、親子喧嘩をしました。

喧嘩の内容自体はこの一週一言の本質ではないでの詳しくは触れませんが、一言で言えば、人に対する礼儀作法の問題というべきか、自己中心的なものの考えや態度について、私は我が子を厳しく叱りました。

私は子どもたちに言い分があるなら遠慮なく話すことを促すのですがいつも涙を流し黙り込んだままです。見かねた連れ合いが仲裁し子どもたちを弁護します。

こんな時、私はいつも自分の生い立ちを恨み、キリスト者であることに苦闘するのです。その父権的態度と体罰的教育から私は父を反面教師として生きて来ました。しかし客観的には見れば私も我が子に対して五十歩百歩なのです。上から語り納得させ従わせる。最近は子どもたちを管理すること無く自由にさせてはいますが、こと隣人との関係性においては、ついつい指導的な態度を取ってしまいます。そんな自分に嫌気が指し、楽になりたいがために放置しようとしますが、それをさせないのがキリストの教えであります。私は思わず子どもたちに「成人するまで飯は食わせてやる。小遣いもあげる。卒業するまで学費も出してやる。今後、お前たちに何も要求しない。だからアッパに対しても何も求めるな」と言い捨てました。しかし言っては見たものの、そんな態度と関係性を我が家に持ちながら、キリスト者として如何に生き、牧師として何を語れるというのでしょうか。胃を痛める私に追い打ちをかけるように連れ合いが、「影愛がアッパは人の話を聞かない。○○先生と同じ」と言っていたよと伝えます。これを聞かされ、更に落ち込んだ私は、夕食の時間黙っていました。すると面白い事に、子どもたちがアレコレと普段以上に話し始めました。鮒と鯉の違いは?という話題からはじまって、ライオンはネコ科で、鳩はハト科で、鷲はタカ科で、鶏はキジ科で、鳩以外にハト科の鳥はいるのだろうか?とかそんな話で賑わいました。私は話をふられた時以外は自分の意見や考えを述べたりはしませんでした。結局、私が黙っている方が、家庭は円満なのかと消極的にもなりましたが、人の話を聞くというのはこういう事なのかも知れないと、ふと思いました。「聞いてやるから話しなさい」ではなく、時には自らが「黙して語らず」して語り出すものなのでしょうか。それだけ普段、私は喋ってばかりいるのでしょうか。人の話を聞くとは、話を理解する能力の問題ではなく、姿勢(技術の伴う)の問題なのかもしれません。牧師として父として「人の話を聞かない」と我が子に言われた事は痛恨の極みですが、「兄弟の目の中にあるちりを取り除いて上げる前に、自分の目の中にある丸太を取り除きなさい」と我が子を通じて神は御心を示して下さったのだと感謝して受け止めたいと思います。

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