孤立を恐れず

人間の愚かさに鑑みるならば、東京都知事戦に勝つ為には「2020年のオリンピック・パラリンピックの成功」を公約に掲げるのが常套手段である。人間は光の下では正義を口にするが、陰での要求は常に腹から出づるものである。更に付け加えれば、人間とは、かくも愚かなものだと他人ごとのように語る輩は最も愚かである。何故ならば、その愚かな人間とは他ならない自分自身だからである。

 しかし1995年青島幸雄氏は、開発が進む臨海副都心地区で開催が予定されていた世界都市博覧会中止を公約掲げ見事当選した。これは例外とみるべきか?決してそうではない。上記公約は税金の無駄使い廃止を訴えるもので、有権者はそれが得であると判断したのだ。しかしその後公約の妥当性が問われた。即ちその選択が本当に得であったかが問われたのである。

 おそらく経済成長を軸にした公約や政策を掲げる声がしばらくは勝利をおさめる結果が続くでしょう。そして光の下で聞こえてくる真実ではなく、陰で囁かれている要求に応えるSTORY上で「憲法改正」を現政府は成し遂げるかもしれません。歴史は繰り返されるというが、やはり再び流血を見る時までは突き進んでいくのでしょうか。

 きっとエレミヤが予言した時代のエルサレムはこれに等しかったのでしょう。エレミヤの予言が糾弾した偶像とは人間が象った彫り物ではなく、それを彫る行為そのものである。神(真実)のみ心を求めそれに仕えるのではなく、自分の腹を満たす神を創る行為。即ち、自分の腹が求めるものを是としてくれる神の存在によって罪から逃れようとする行為。それが偶像の正体である。罪の赦しとは神が与えるものであって、人間が自らを赦す神を創ることではない。

 神はエレミヤに孤立の道を歩ませた(エレミヤ16:1-13)。それはこの世と妥協することなく、人になびくことないように。神がエレミヤに与えた孤立とは、陰で囁かれている人間の腹から出づる声との断絶といえる。この孤立は自らの足で自立することであり、神と一対一で向き合う単独者を意味する。しかし同時にこの孤立は不可避の苦難を伴う。されどその先に神は、新しい出エジプト(16:14-21)の希望を約束するのである。

 教会は見張りの使命を負っている。しかし人間は愚かである。それは、教会は真実を知っているとか保持しているという事ではない。予言者らの時代からイエスキリストを経て今日に至るまで、聖書の神が抗うのは偶像である。その偶像に勝利して、即ち「孤立を恐れず」歩む先に、新しい出エジプト、復活の希望があるという事を知っている・・。それを知っているという一点のみにおいて教会は見張りの使命を負うのである。

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