若者たちの都知事選を巡って反原発を訴える記事が「民主主義は残った」とのタイトルで新聞に掲載されていた。民主主義とは何か?今改めて問い直されている。
思想家や政治家でもない私が語るには難問で、恥ずかしくも幼稚なレベルでしか答えようがないが、最早多数決による「民主主義」は終わったと言わざるを得ない。結論を先どれば民主主義本来の目的、本質、それは「弱主主義」である。封建社会において権力者が法であった時代に、民の一票に力を移管し、その総意を持って法と成す。これは画期的な事件であった。即ち権力者から権力を奪い、その権力の下で虐げられていた弱者を救済する。これが民主主義の本質であると私は考える。
だとするならば、最早「民主主義」は終わっている。何故なら、多数自体が権力を持ってしまったからである。民による多数決は、一握りの権力者(国王)から権力を奪い公平をもたらした。しかし今はその多数がかつての権力者に成り代わってしまった。組織票で今日の都知事選も決定することでしょう。
民主主義とは本来、偏った権力を抑止し、それによって虐げられていた弱い立場にある者を救済する所にある。弱肉強食に対する否こそが民主主義の本質であり、同時に人間の証明とも言える。しかし最早多数決はそれを実現しない。
公平の定義は簡単ではないが、それは偏った権力を抑止する不断の営みと言って大きく間違っていないと思う。ならば今や、多数決に代わる公平を実現する新たな方法を創らねばならない。福祉制度はその一つではあるが、多数を取らなければ予算も縮小される。多数という民意の力でどうにでもなってしまう。これがこの世の限界かもしれない。しかしキリスト教は、99匹を残して1匹を捜し求める愚かさの中に、その答えを探し求めてきた。愚かと言われても良い。多数決という有限の謀では知り得ない、神の無限の知恵を信じて、これからも愚かな道を歩んで参りたい。