エレミヤの嘆き

月例聖書を学ぶ会は、先週、エレミヤ書の17章14−27節を学びました。その前半部分(14-18節)はエレミヤの嘆きが告白されています。

エレミヤは、神の言葉は必ず実現すると告白しながらも、その遅延によって予言した自分が民の嘲りを受けていることを嘆きます。

しかし、その嘲りから逃れたいがために、あなた(神)に対して予言の速やかな実現を求めたことはないと自らの正当性を主張します。

更に、自分が予言したことは、自分の思いから出たものではなく、間違いなくかあなた(神)の御心であったと付け加えます。

このエレミヤの嘆き、自らの正当性、神の御心の行間には、預言者として口にしてはならない苦渋の思いが横たわっています。それは、あなたの予言をしたが故に、嘲りを受けているこの私を、あなたはどうお思いなのか?放って置かれるのか?私は私の責務を果たしたのであるから、あなたは私を助けるべきではないかと、遠回しに要求しているのです。

そんな行間に忍ばせておいた思いは、遂にエレミヤにその言葉を口にさせてしまいました。

「災いの日を彼らに臨ませ、彼らをどこまでも打ち砕いて下さい。」(エレミヤ17:18b)

エレミヤは、自分の窮地を嘆きながらも、神を責めず、また自分の正当性を主張しました。しかし、最後の最後に、遂に呪いの言葉を吐いてしまったのです。読者はこれを肯定することなく、ここにエレミヤの限界を認めるべきでしょう。

このエレミヤの最後の言葉、ここに信仰の生死の境目(それは即ち、神の御心か、己の思いか?)が存在ます。旧約聖書は人間の限界を曝け出します。決して人間を美化しません。大予言者エレミヤも例外ではないということです。しかし、これを単にエレミヤの限界と断罪するだけでなく、真剣に神の御心を生きようとする者が、どこで苦しみ、どこで信仰とは何であるかを考えさせられる「境界線」を確認すべきです。そしてエレミヤ自身がその境目で苦しみ悶えたのです。

確かにエレミヤは最後の言葉を口にすべきではありませんでした。しかし、それを口にしてはいけないという思いが、エレミヤの嘆きの行間にハッキリと伺えます。しかし、いけないけど、言ってしまったエレミヤを通じて、信仰の生死の境目、闘いの最前線が如何なるものであるかを、信仰者はわきまえ知りらねばなりません。でなければ、それほどまでに苦しみ抜いたエレミヤが浮かばれないではありませんか・・・。

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