右傾化という言葉が政界、教団内で聞かれるようになって久しい。この右傾化の定義を調べてみると「保守的・国粋主義的になること。右翼的な傾向を強くすること。⇔左翼 {—した政策}」(大辞林)とあった。
しかし近年の政界、教団内の右傾化は「無歴史化」と言って良い。歴史と率直に向き合わずそれを否定又は無視する傾向がある。教団においては「戦責告白」の否定、「東京神学大学への機動隊導入」を避難した当時の判断を訂正する等、過去の事実や反省を無力化している。
また先週、政府は「河野談話」の検証を行うと明言した。即ちこれは「河野談話」は誤りであったとする結論を導き出す作業である。
極めて危険な状態であるが、以上は裏を返せば、結局人間は未来を展望するとき歴史を無視出来ない事の表れとも言える。
しかし「集団的自衛権」の憲法解釈の変更は、これまでの議論を全く無視していると言わざるをえない。また先月の教区総会に置いても、「『教区を挙げてイエスキリストの福音を伝道することに全力を注ぐ』ことを教区活動基本方策の冒頭に据える」とする提案(第12号議案)も、教区がこれまで歩んできた歴史と積み重ねてきた議論、その議論の中で生み出された「教区形成基本方針」全てを無視していると言わざるをえない。
最近、この「無視」という暴力が台頭している。否定はまだ許される。何故ならそこには対話の余地を残している。一つの事実に対して異なる見解を突き合わせる作業が理論上残されている。しかし無視は対話の余地を残していない。無視は自己絶対化であり、神学的には人間が神になる行為である。自己相対化とは即ち、対話を放棄しない事ではないだろうか。更に言えば、対話とは人間が人間になっていくための欠かせない作業である。
否定には、まだ希望がある。しかし歴史を無視して明日は望めない。それが人間である。