自己相対化と謙虚

先週、神奈川教区常置委員会で新しく教区に来られた教師の面接がありました。神奈川教区は独自の教区形成基本方針に基いて教区形成をすすめており、面接者は毎回その基本方針についての所見を求められます。

この度、三名の牧師をお迎えし、そのお一人が「自らを相対化すること」「謙虚になること」の大切さに共感しつつも、その現実的な難しさについて思いの丈を述べられました。

確かに自己を相対化すること、謙虚になること、これらは容易いものではありません。しかし私は彼の話を聞きながら改めて自己相対化とは?謙虚になるとは?(教区形成基本方針の文脈において)如何なることかを自問自答しておりました。

立場や考えに違いがあることを率直に認めるとは、単にそれを認めるということではないと思います。違いがある所には対立や否定が生じます。私はそれで良いと思うのです。ただそこで自らを相対化するとは、対話の姿勢を貫くことでしょう。(先週の一週一言でも触れましたが)無視する事は自己絶対化であります。自己を絶対化せず相対化するとは、相対化すように努めていく行為そのものであり、それは「対話から逃げない」という事でしか成し得ないものであると思います。対話する事それ自体が、自己相対化であると捉えて良いと思います。

一方、謙虚とは何か?私は謙虚な人間ではありません。傲慢です。しかしそれを言ってしまえば五十歩百歩でしょう。教区形成基本方針において自己相対化と謙虚は車の両輪といえます。即ち謙虚とは「対話の姿勢」であると思います。

(1)それは自分の考えを押し付け、相手を説き伏せるのではなく、自分の立場と考えを対話というテーブルに提出する行為。

(2)この世に完成されたものなど無い、神奈川教区も形成途上であるように、私もあなたも(常に)今は「一部分」に過ぎないという認識。

(3)しかし、この対話の延長に「一部分」を超える答えが在ることを信じて歩む共同作業であるとする姿勢、以上が謙虚の内実であると思います。

自己相対化、謙虚、それ自体は人間的に非常に難しいことです。しかし教区形成基本方針おいてそれは、共同作業としての対話を世の終わりまで続けていくということでしかないのです。

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