ガリラヤへ

マルコ福音書による、復活の朝のメッセージ。それは「ここにおられない」「先にガリラヤへ行かれる」「そこでお目にかかれる」である。即ち「ガリラヤへ行きなさい」である。

イースターは、否、イースターこそがキリスト者にとっての喜びである。しかし、その喜びの内実は如何なるものか?

それはガリラヤへ行かなければ分からない。ガリラへ行ってはじめて、復活の意味が明らかとなり、何がどのように喜ばしいのかも明らかとなる。

誤解を恐れずに言えば、イースターを祝うのは、十字架で死を遂げたイエスの復活を祝うのではない。躓きを与えないために言い添えるならば、十字架で死を遂げたイエスが復活したという過去の出来事を「よかった、よかった」と祝うことではない。

「貧しい者は幸いである」。このみ言葉は、今日の糧が保証されている人には分からないし、語る資格もない。何ゆえ、如何にして「貧しい者は幸い」足りえるのか?それはガリラヤへ行かねば分からない。等しくイースターの何がめでたいのか?その答えはガリラヤにある。だからガリラへ行きなさいということである。

関田牧師は故神谷量平兄の葬儀で「宗教はアヘンであるとするマルクス批判を受け止め乗り越えていかねばならない」とおっしゃられた。然り、痛みも悲しみも空腹も抑圧も、それら全てが「ユダヤ人もギリシャ人もない、男も女もない、自由人も奴隷もない、みなキリスト・イエスによって一つなのである」とする教理によって、痛みを痛みと感じず、傷んでいる人の痛みも感じることの出来ない所で、イースターは祝えない。それは主の十字架を空しくするものである。福音書が語る復活の朝のメッセージ。そこに「祝」の文字は見当たらない。ただ、ガリラヤを指し示している。この事実を直視したいのである。土手を越え、この河原に身をおく事を許された川崎戸手教会であるが故に、そこは譲れない一線であると心得る。

それぞれのガリラヤへ行きなさい。そこでイースターを祝いなさい。

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