無駄

昨日の夕食は、私の提案ですき焼きになりました。そして盧芝栄姉が買ってきたお肉を見て驚いたというお話です。

お肉に入ったパックの中にパセリが見えたのですが何か変なのです。よく見ますと、それはパセリではなく、パセリの写真が印刷されたフィルムでした。私はそれを見て呆れてしまいました。私の勝手な解釈ですが、パセリは飾りなので、飾りなら写真でも良いという理屈だと思うのです。

確かにコストダウンだと思えば良いのかも知れません。しかし私はこの発想に危機感を覚えます。よく知っている訳ではありませんが、パセリは雑菌の繁殖を防ぐ成分が多く含まれているとの事で生鮮物に添えられていると聞いたことがあります。その意味を脇へ避けて、食べ物ではないから(私は食べますが)写真で代用するのは、過った合理主義ではないでしょうか。このような事が文化的、更には思想的退廃を招くと思います。

集団的自衛権を限定的に認める方向で調整がすすめられているようですが、自衛隊が国外で武器を使用した場合、既に憲法九条が破綻しているので現状に合わせて改定しましょうという段階が次に控えています。パセリから飛躍しているように思えますが、実態がこうだから規則もそれに合わせましょうというのは、過った、否悪しき合理主義です。この共通点は形が本質を無視して先行し、現状を無自覚に肯定してしまう点です。

感覚的ですが、日本は戦後の高度経済成長から現在まで徹底して合理化を図ってきた故に、物事の本質を置き忘れがちなってしまったように思うのです。それはパセリから憲法九条に至るまで。新しいまちづくりを見ても何となく文化とか風土というものを感じ取れません。良く言えば無駄がない。悪く言えば味がない。近年、隣りの韓国にも日本以上に同質の問題を感じます。

宗教とは、経済的視点からは「無駄」という領域を守備範囲にしている存在といえるかもしれません。しかし宗教は、その「無駄」と思えるようなものの中にある人間にとってかけがえの無い本質を守り続ける重要な役割を担っています。否、本来担わなければならい使命を負っている筈です。故に教会がその問題解決にあたるとき、それは極めて非合理的であらざるを得ないのです。迷い出た一匹を捜し求めるように・・・。

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