本日、平良愛香教区総会議長の司式のもと、瀬山伝道師の就任式が執り行われます。
さて、この就任式でありますが、立場と見方によって随分と性格が異なって参ります。就任するのは瀬山伝道師でありますから、これは瀬山伝道師が就任する伝道師就任式であります。しかし見方を変えれば(事実、その見方が正しいのですが)、川崎戸手教会が伝道師を迎える伝道師就任式であります。誰が就任するか?ではなく、教会が伝道師を迎えること事が主題であります。
川崎戸手教会は「聖書による独立、神と人への奉仕」を姿勢の大黒柱に据えて歩んでまいりました。故に依存ではなく、信仰的に自立した教会であり、またあろうとしています。しかし関田牧師による開拓伝道以来、一人一人は信仰的に自立してはいるものの、教師を迎える教会的主体性という面においてはその自覚が若干薄い教会であると私は思います。
すなわち牧師が信徒を招いているのではなく、キリストを頭とする教会(その教会とは形ではなく、信徒の交わり)が、牧師を招聘しており、世俗的に言えば、牧師は教会に雇われているわけです。牧会的に見れば信徒は羊、牧師はその羊飼いです。しかしその牧師は、教会が主体的に選び、雇用するわけです。
この自覚は牧師を招聘していくという経験の中で育まれていくものかもしれません。川崎戸手教会は関田牧師以来、教会自身が主体的に考え選び招聘したという事例の少ない教会です。
この度就任される瀬山伝道師もまた然りです。しかし基本的にこれは何の就任式であるか?その主体は誰であるか?を私たちは自らにその自覚を促していくべき時期ではないでしょうか?
組織論が先行する教会では、個人の自立した信仰を養うのは困難です。逆に個々人が自立した(消極的にいえば、それぞれ勝手な)信徒の集うところでは組織的自覚は希薄になります。
私は教会を組織論的に考え語ることはしません。組織論先ずありきで、その枠内で信仰を語ることをしません。しかし信仰が形になって行くように、戸手に集う皆様の自立した信仰が、組織というものを形作っていく道筋もあると信じます。
本日、川崎戸手教会は伝道師を迎えます。川崎戸手教会とは、わたくしたちであります。本日の伝道師就任式の上に主の豊かな祝福と導きが在ることをお祈り申し上げます。