今年度から、戸塚のYMCAスポーツ専門学校のキリスト教概論を担当する事になりましたが、やや苦闘しております。登戸のYMCA福祉専門学校を担当して13年ほどになりますが、こちらは何とか授業として成り立っています。しかし戸塚の方は半分以上が寝ている状態、3割が喋っていて聞いているのは2割もいません。まあ、寝ながら喋りながらも聞いてはいるようですが、登戸の学生程、集中してくれません。
今のところ、手探り状態で色々試していますが、問題の根本的な要因が明らかになりつつあります。私の講義はキリスト教概論ですが、やはり介護福祉士をめざす人を前提に内容が構成されていました。しかしそれはトレナーやサッカーコーチ等の職に就く戸塚の学生にとっては関心事ではないようです。
例えば良きサマリア人の話などは、福祉専門学校の人の心に響いても、スポーツ専門学校の人にはさほど面白くないのかもしれません。それよりはむしろ共同性を喚起するパウロの「体は多くの部分からなっている・・・」という話のほうが興味を引くのかもしれません。
私は根本的な事を忘れていました。聖書は如何に読むかではなく、何処で読むか?であります。即ち、語るべき対象や状況、関係性を踏まえないで一方的に語られるべきものではありません。
現在、戸塚のスポーツ専門学校で私の講義を受講している学生には少々申し訳なく思っておりますが、しばらく色々試させて頂き次に繋げて行こうと思っています。
語り手の主体があるように、聞き手の主体もあります。それを知ることなくして語りては語る言葉を見いだせません。しばらく戸塚での苦闘が続きそうです。