わたしは、この川崎戸手教会に招かれて4か月が過ぎようとしています。
1年の4分の1が過ぎようとしています。いろいろと失敗をし、お叱りを頂きながら
ここまで来させていただいたことを皆さんに感謝しています。
わたしが神学生の実習で初めて戸手の礼拝に出席した時印象に残ったのは、「平和のあいさつ」でした。
「主の平和がありますように」、ひとりひとりと互いの手を握り合います。隣の人、前にいる人と、この互いの平和を祈るあいさつは礼拝に集うひとりひとりと交わされます。
正直言って最初、わたしは、しどろもどろでした。わたしにとって、それは初めての経験でした。
今では、礼拝の中の喜びの一つとなっています。
わたしは、一人一人と、このあいさつを交わす時、その一人にも、わたしにもイエス様が重なっていると信じています。
今、わたしは、「その一人にも、わたしにも」といいました。この「にも」には、私自身が川崎戸手教会への特別な思いがあります。それは、川崎戸手教会の生い立ちにあります。
元々は、土手の内側にあった教会を在日コリアンの人々の住む河川敷に移した教会というところにわたしの思いがあるのです。それはそこに住んでいる人と同じ視線で向き合うためだったと聞かされた時からわたしはこの教会への思いがつのっていったのです。
河川敷に住む人々、それは社会から排除された人々でした。
わたしの住む大田区の河川敷にもかつて在日コリアンの人々が住んでいました。
わたしが小学校1年生のころ(1965年)学校の区域にも関わらず土手の向こうには行ってはいけないと大人から言われていました。A君という仲のいい友達がいました。
彼はよく家に遊びに来てくれましたが、わたしは彼の家に行くことはありませんでした。
いや、一度だけありました。二週間待たされました。訪ねてみるとそこは、河川敷のバラックでした。大人から声高にひどい目に合うと言われていた地域、それはわたしにとっては決してそうではありませんでした。A君は二年生になるときに転校して行きました。
行き先はおしえてもらえませんでした。
社会から排除されること、わたしもまた、違った形で社会から排除されてきました。
わたしは男性同性愛者です。子どものころからそうでした。
わたしの場合は、社会と教会から排除された経験をもっています。
約20年教会から離れることになりました。
わたしは川崎戸手教会の歩みは主イエスの歩みだと信じています。
イエス様はこの社会の中で小さくされたものに同じ視線で向き合う方です。
形も背景も違いますが、排除されたものに同じ視線で向き合うことわたしが川崎戸手教会を志願した動機はここにあります。
前回の礼拝の説教で、川崎戸手教会は帰って来るところだとききました。
ある教会のメンバーがネットで「わが家っていいなぁ」と言っているのを読みました。
わたしも同感です。
平和のあいさつ、「主の平和がありますように」これを交わすひとりひとりがイエス様だとわたしは信じています。
そのような思いでこの一週間歩んで行きたいものです。
そうして再びこの川崎戸手教会で逢えることを心より祈ります。
「主の平和がありますように」次の合同礼拝で互いの平和を祈りを交わす処にわたしたちの一切を引き受けたイエス様が、それぞれに重なって引き受けて下さっていると、わたしは信じているのです。