集団的自衛権

集団的自衛権が閣議決定されました。公明党は平和憲法の精神を守ったと弁明しますが、自衛隊の海外武力行使を可能したことには違いありません。即ち条件さえ整えば、日本は海外に自衛隊を派遣し戦争に参加する事が出来るようになった訳です。

今後、特定秘密保護法と合わせて、その廃止と変更を求める運動が展開されていくわけですが、将来日本が再び戦争に武力参加する日は避けがたいように予測します。

そして、破壊され血を流し命を奪われて再び反省の時を迎えるのでしょう。

先の大戦では、国家総動員法の下で、いわば訳の分からぬままの戦争協力体制に陥りました。敗戦後、戦争というものそのものの悪魔性を痛感し不戦の誓いを憲法9条に込めたのです。

しかし今回は、知りつつの集団的自衛権の解釈改憲であります。それは経済を優先するあまり、見て見ぬふりをしたのであります。

確かに戦後世代の台頭もその要因のひとつに上げることは出来ますが、その世代が自覚的に経済を優先し戦争に参加する小さな風穴を開けてしまったのです。

それは50年後、いやもしかしたら20年後の話かも知れませんが、その反省の時には、単なる戦争の悪魔性を知るに至るものではなく、己の腹を満たすために戦争に参加した事を総括しなければなりません。

そして経済成長という資本主義の避けることの出来ない命題に、「しかしながら命には変えられない、本当に大切なものはなんなのか?」という問いが楔として打ち込まれることでしょう。

時代は繰り返されますが、振り子のように同じ軌道を単純に往復するのではなく、失敗を繰り返しながらも少しずつ成長していくもので、人類とはそのような仕方でしか成長できない愚かな存在であります。

そしてそのような将来を予言しながら、教会は、み言葉に聞き、み言葉に従って参りましょう。

 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」                                          (ヨハネによる福音書12章23節~)

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