先週、「昭和天皇(1901~89)の日々の動静や関わった出来事などを記した『昭和天皇実録』が完成し、21日午後、皇居・御所で、天皇、皇后両陛下に献上された。」との報道がありました。
当然ながら私たちの関心事は天皇の戦争責任でありますが、今回の「実録」でそのような事実が明らかにされる可能性は薄いでしょう。それどころか「戦禍に心痛める陛下の心中」とか何とか、天皇制を強化する機能が盛り込まれる不安の方が大であります。
宮内庁は、「大正天皇実録」は一部が黒塗りされて公開されたが、今回は黒塗りせず、87年の生涯を確実な資料に基づいてまとめた、いわば公式記録であると公表しています。しかし編集者(歴史家)の意図に基づいて、既にその資料は取捨選択されています。
我々は歴史と如何にして向き合うべきでしょうか?否、歴史とは何なのか?歴史に対し、確実に誤った姿勢があるとするなら、それは自らの現状と、自らの腹を満たす未来を肯定する為の材料としてそれを用いる事です。
R・ブルトマンはその著書『イエス』の序論(観察の仕方)で次のように綴っています。
「即ち彼は自身歴史の一部であり、それゆえ一つの連関に当面しているのでいるのであり、その連関の中に彼自身の存在が組み込まれているのだ、と。だから人はこの連関を、自然のように単に事物として観察することはできず、或る意味では、歴史について語る一語一語は同時に自分自身について何かを語ることになる。ゆえに客観的自然観察があるという意味での客観的歴史観察はありえない。」
即ち神ならぬ人間にとって、歴史とは材料ではなく永遠に自分自身との対話(反省)でしかあり得ない。それに無自覚な歴史家の綴る歴史は、 — 過去に書かれた「イエス伝」等と銘打った著作等と等しく — 自ずと自分に都合の良いものにしかなり得ないのである。
、と読まずして既に「昭和天皇実録」を批判しているわけですが、9月に公開され市立図書館にでも置かれましたら、是非第二次大戦下辺りの「実録」なるもには目を通して見たいと思います。
同時に、キリスト者として「ナザレのイエス実録」なる自己肯定の身勝手な著作を脳裏に蔵書してはいないか?それは「昭和天皇実録」と同質の問題を含むものであるか否か?よろしく吟味することを迫られた「昭和天皇実録」報道でありました。