先週(9/1-3)、みんなの伝道協議会(旧開拓伝道協議会)が農村伝道神学校で開催され、二日目は寿地区センターと川崎戸手教会をフィールドワークしました。今回、私は「どこで誰とつながるか?」というテーマをいただき主題講演を任されました。
どこで、誰と、つながるか?このテーマの主張は、場所、隣人、共生、であります。伝統的な開拓伝道とは、キリスト教を知らない未開の地にあって、未だ福音を知らされていない人々に、布教する、ことでありました。しかし、そこにはキリスト教の驕りがあって、それが固有の文化や民族性の破壊へと繋がりました。またかつては人口が集中する農村へ盛んに開拓伝道しましたが、農村から都市への人口移動に伴ってそれも衰退し、代わって原発や核廃棄物の処分場が置かれました。
開拓伝道なるものを考える時、以上の反省を踏まえる事は必須であります。私が川崎戸手教会の主任となる時、関田牧師は「伝道はしなくて良いです。ただこの河原の街でキリストの教えを生きて下さい」。それが唯一の引き継ぎ事項でした。言い換えるならば、この河原の街をキリスト教化するのではなく、聖書に基づいてこの河原の人々と共に生きて下さい、という事でありました。
講演を通じて川崎戸手教会の歴史を語りながら感じたことは「どこで誰とつながるか?」という問いの答えは、「どこで」が決定するものでした。経験的ではありますが、それは空間的であれ立場的であれ、自らが身を置く場所が「だれ」と「つながる」を必然的に決定づけます。この戸手四丁目に導かれたことが、また朝鮮学校の保護者になってしまった事が、必然的に誰と如何につながるかを教えてくれました。
キリスト教伝道において、今「どこで」が問われています。それは布教対象としての未開の地や人口の集中地域ではない、「どこで」が問われています。そして最も重要な事は、その「どこで」は確かに机上で導き出すことは可能です。しかし大切なのはその「どこで」に身を置くことであります。そこに身を置くことが伝道の九分九厘であり、且つ隣人を変えるのではなく、教会自身が変えられ豊かにされて行くものであるということでした。