一緒に怒る

昨日、娘が怒り心頭、目を潤ませながら帰宅しました。東急バスが予定より30分も遅れた事がその理由でした。娘は私に東急バスに抗議の電話を入れるように迫るほどの剣幕でした。更に話を聞けば、遅れたバスの運転手から謝罪の一言が聞けず、それに抗議できなかった自分自身に対して何より腹ただしかったという事です。

まあ、親が親だけに子も子であります。確かによく似ています。そんな事を脳裏でほくそ笑みながら、私は娘をたしなめました。「別に運転手が居眠りをしていたわけでなく、交通渋滞で遅れたのであるから運転手に責任はないよ。そんな事で怒るなよ・・・」と、そん事を申しましたか・・・。しかし、娘は消化不良のまま二階に駆け上がって行きました。

その時の事です。娘がその場を後にして、妻が私に一言申しました。「今のは一緒に怒ってあげるんだよ」。(一瞬沈黙) 私はその一言に「なるほど」と反省を促されました。私は娘の怒りを収めてあげようと思って言ったことですが、結果的に娘の為にはなりませんでした。またよくよく考えると、私は自分の怒りを収める事が、最近の私的関心事であって、その関心を娘に押し売りしていたのかも知れません。厳しく言えば自己満足の域を出るものではありませんでした。

そんな自己反省と共にパウロの言葉が脳裏をよぎりました。(Ⅰコリント9:19〜)

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。

(中略)

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

妻の言うように、あの場面では、私は娘と一緒に怒ってあげるべきでした。そこでは怒りの本質や怒りの収め方等が問題なのではなく、まして私の関心事を偉そうに教育する場面でもなく、娘の目線で一緒に怒ってあげることでした。目を潤ませ怒りを抱えたままで辿り着いた我が家で、しかも親子という関係性で、その時娘に必要とされていたのは、「東急のヤロー、許せまへんな〜」と言って、抗議の電話をかけてあげることでした。

真に何が隣人の為であり、何が隣人を愛することなのか?パウロの全ての奴隷となりし、その聖書の言葉に照らして、未だ己に囚われている未熟者にとってそれは甚だ難しく、同時に無自覚な領域の果てが未だ見渡せないでいる事を、妻の一言で問われた一幕でありました。

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