神を知る

エレミヤは主の言葉を告げました。

「正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない」(22:3)

イスラエルがこの言葉に背いた故に、エレミヤはエルサレム崩壊の審判預言を告げました。

南ユダ王国末期の政治はエジプトとバビロニアの狭間にあって、どちら側につくか?というべきものでありました。エレミヤは神に頼らず近隣の国々に振り回され隷属する姿勢を避難しました。しかし最も怒りをおぼえたのは、エホヤキム王がエジプトに金銀を送り、その故に民に重税を課しました。さらに民が苦しんでいるのを知っていながら、無賃金で自分の宮殿の改築を行わせたことでした。

政治家は外交政策で難しい判断を迫られることでしょう。エホヤキムはエジプトとバビロニアの狭間で苦渋の決断をしたことでしょう。キリスト者としての信仰的決断も現実との狭間で迷い苦しむことが多々あります。

しかしエレミヤは、ヨシヤ王が質素な生活をして貧しい者の訴えを聞くことによって神を知ったと申しています。神を知るとは、神と近しい関係になるという意味を含んでいます。信仰の歩みには順序というものがあるかもしれません。しかしそれは必ずしも神を知り(真実を知り)、そして正しい道を歩むことが出来るという手順ではありません。難しいとされる道を歩む知識を得て、歩み出す事が出来るのではなく、歩みの中で神と出会い神を知るのであります。そしてその神が導いて下さるのであります。

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