他人のふりをする

「他人のふりをする」   瀬山一郎

マルコ福音書14:66~72

「他人のふりをする」とは、人の弱さから出るものだと僕は思います。

それは、その人との関係を否定することです。

僕の二つのエピソードを見てみます。

エピソード①

僕にはAという幼馴染がいます。お互い地元の幼稚園から一緒の友達です。

仲の良かったAが急に僕に対して他人のふりをするようになりました。原因はネットの動画や写真記事で、僕が同性愛者であることを知ったためでした。Aには前から僕が同性愛者だということを伝えていました。受け入れてくれていると思っていました。ネットで改めて

僕を見て動揺したものと思います。こうした弱さは僕も持っています。

エピソード②

それは、以前の会社で上司と表を歩いていた時の事、普段仲の良い友人と会いました。

同性愛者の彼はいい奴だけれど、少し空気が読めず、周囲に違和感持たせてしまうしぐさをする人でした。案の定、すれ違いに違和感をもたれるしぐさで挨拶され、上司が動揺して、不意に「友達?」と訊かれました。動転した僕は思いっきり上司の問いを打ち消して「バーの店員ですよ。ちょっと変わった人でね。」それで事なきを得ました。

上司の不意な問いに一瞬、僕は、その友達に嫌われても、傷つけても構わない、保身から彼との無関係を選ぶ自分に豹変したのです。あらがえない罪の力に支配された自分の弱さと否定した友のことで落ち込みました。今日の聖書のポイントは、ペテロに対する第三の問

にあると僕は思います。「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら『あなたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」。これは、自分の言葉を確かにするために神様に見捨てられてもよい、そのような思いをペトロは気づかないままに口にしているのです。「見捨てられてもよい」とは、「自分はどうでもよい」となり、それは自分を無価値にし、自分が愛せなくなり自暴自棄に発展し、人との繋がりを破壊します。冒頭のエピソード②で「僕はその友達に嫌われてもいい、あなたとは関係をもたない」と言った自分と重なるのです。ペトロが「そんな人は知らない」という言葉が言い終えないうちに再び鶏が鳴きました。

ペトロはイエスの言葉を思い出しました。「鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないというだろう」ペトロは泣いた。人目を憚らず大声で。主イエスはそんなペトロを知っていました。そんな私達を知っています。イエスが「ペトロとわたしたちを知る」とは、罪の力にあらがえない人の弱さのすべてを背負って十字架に掛けられて死ぬことです。僕は、平行記事のルカ福音書22章61節を思い出しました。「主(イエス)は振り向いてペトロを見つめられた」と述べられています。それは私達の弱さのすべてを引き受ける主の穏やかな眼差しだと僕は信じるのです。新しい週、他人のふりをするのではなく、互いを大切にして支え合う歩みをしましょう。僕もこの一週間の歩みの中で幼馴染Aと向き合い、繋がりの回復するために歩んで行こうと思っています。もしかして挫折するかもしれない。でも、イエス様が引き受けて下さいます。手を引いて下さると信じて歩みましょう。神の祝福がありますように。

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