他人のふりをする

先週の瀬山伝道師の説教から深い示唆を与えられました。友人から他人のふりをされたこと。同時に自分も別の友人に対し他人のふりをしてしまったこと。あの大祭司邸の中庭でのイエスの悲しみとペトロの罪悪感を瀬山伝道師の経験談を通じて一歩深く味わ知ることが許され感謝でした。

私も同質の経験がありますが、自己防衛が悲しい経験を凌駕してしまう時、罪悪感で行き場をなくしてしまいます。しかし日常自分を隠して生きざるを得ない者にとって、日の当たる場所では他人のふりをするしかない場合もあいます。時と場所が他人のふりをさせてしまいます。イエスは「神の国はあなた方の間にある」と言われました。それはある意味、時と場所を選ばず、他人のふりをしない関係性の中に神の国はあるのかもしえません。

しかし一方で、自己防衛の故に他人のふりを強いる社会の問題性を見落とせません。昔、大倉牧師が子どもの教会に通うひとりの少年を街で見かけ、声をかけたら他人のふりをされたいうお話を伺いました。その少年はこの土手の中で育ったH君。彼は教会では民族名を名乗っていましたが、土手の外では日本名を使用していました。その使い分けを知らなかった大倉牧師はH君を民族名で呼びかけ、H君は友人の手前知らぬふりをしたと言うことです。大倉牧師が反省の意味を込めてお話されていたのをよく覚えています。

確かに差別的に他人のふりをす場合もありますが、他人のふりをせざるを得ない悲しい状況や関係性がまだまだ私たちの身の回りには存在します。神が知っておられるこの世の全ての命が、互いに他人のふりをしない、またしなくて済む時代の訪れを信じて、勇気ある挨拶を交わして参りたいと思います。

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