選びの責任

エレミヤ書の学びは前半を終え、後半の25章に入りました。その冒頭は、前半で語られた預言の要約から始まります。それは、

1)イスラエルが預言者に耳を傾けず他の神々を拝んだ事、2)それ故にバビロンのネブカドレツァルを神の僕として用い、イスラエル及びその周辺の諸民族・諸国をも滅ぼす事、3)更に捕囚としてバビロンに連行される事です。

17-26節には、バビロンによって滅ぼされた国々のリストが記されています。それは世界史的に見ればバビロンの世界制覇であり疑問を差し挟む余地はありません。しかしイスラエルの信仰に照らすならば、裁きを受けるのはイスラエルであって、どうして周辺諸国まで裁かれるのか?エレミヤはこの問いに答える責任を負い神学的見解を示しました。

「万軍の主はこう言われる、見よ災いがひとつの民から出て他の民に及ぶ。」(32節)

神は全ての民を救済する為にイスラエルを選ばれました。選ばれた民の責任は重く、それ故に全ての民が救われるなら、等しくそれ故に、全ての民が裁きを受けるという事です。

今日のキリスト教会は「選び」を私物化してはいないでしょうか?自らを善とし、時の権力を悪として済む話ではありません。キリスト教会は神から委託された見張りの責任を負っており、その責任を果たす時全ての民は救われ、それを怠る時全ての民は裁かれます。権力批判の上に胡座をかくのは、罪人を非難して自らの善を立証する律法学者やファリサイ派のそれと同じであります。

暗い未来を予言しているかのような総選挙の結果を見て、「また一度、痛い目に合えば良いのだ」と私は他人事のようにつぶやきました。しかしそれは選びの責任を放棄することに他なりません。エレミヤの預言に耳を傾けたいと思います。この日本が滅びるのは選ばれし者の災いが他に及んだ結果であると肝に命じ、クリスマスの喜びを私物化せず、分かち合い、その責任を共に担って参りたいと思います。

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