孫裕久
「私が命じるこれらの言葉を全て語れ。ひと言も減らしてならない」エレミヤ書26:2b
ヘブライ語のナービー(nabi)[ギリシャ語prophetes]は日本語で「よげんしゃ」と訳されていますが、漢字では「予言者」と「預言者」の二通りあって統一されていません。そもそもナービーの直訳は「呼ばれた者」ですが、ナービーのの語る言葉に「予めの言葉」と「預かった言葉」の両方が含まれているのがその理由と考えられます。
ナービーは神から「予言」を「預かり」、それを民に告知します。その言葉が審判的である時、しばしばナービーは躊躇します。その代表例がヨナであります。何故ならナービーは神の言葉を告知する時、その内容如何で迫害を受けるからです。
元々エレミヤは若輩者で弱腰のナービーでした。そんなエレミヤに神は「ひと言も減らしてはならない」と命じます。これは真に厳しい命令です。ナービーは我が身を守るため、預かった予言を編集する事を許されません。
言葉とは現実と共にあらねばなりません。今日、現実から遊離した空しい宗教用語が巷に溢れています。故に神の言葉は現実に理解される言葉に翻訳されるべきでしょう。テキストとコンテキストの循環とはその事です。しかし、しばしばその翻訳作業でナービーの(教会の)都合や言い訳が混入してしまいます。
日本基督教団は預かった言葉(第39回総会決議「特定秘密保護法の廃止を求める声明」)を国家に正しく告知していません。常議委員会は教団総会決議の「お知らせ」として声明文を資料添付し内閣に送付しました。
エレミヤの預言からは、その人物像は激しく力強いものを感じさせます。しかし実際は弱虫且つ泣き虫で、陰で弱音ばかり吐いています。そんなエレミヤでしたが「ひとことも減らしてならない」というこの命令に唯一単純に従ったのでしょう。
神を畏れる所に真に知恵が宿ることを、現代を生きるナービー(即ち私たち)は先ずわきまえ知り、「ひとことも減らしてならない」という命令の前に襟を正しましょう。