もがき苦しむ神

「もがき苦しむ神」

瀬山一郎

かつて僕は、全知全能(=何でも知っていてなんでもできる)の神という信仰をもっていました。

僕が神学生の頃でした。

校内で女性の学生へのハラスメントがあり、学生会の会長だった僕は、被害者女性と加害者と男性の学生と学校との矢面に立ち行き詰っていました。男性陣からは、男のくせに女性の肩を持つと批判され、被害者からは解決を叫ばれ、学校からは学生会総意を急がされる毎日、とうとう鬱症状に見舞われ精神科に通院するまでに至りました。神はどこにいるのかと思うようになりました。

そんなときにドロテー・ゼレという神学者の書いた本に出合いました。

彼女は20世紀のドイツの神学者でこれまでキリスト教が語ってきた「全能=何でもできる神」という考えに疑問をもち、「人間の手しか持たない無力な神」という言葉を使ったこととにより「お前は全能の神を否定するのか」と世界中の神学者から袋叩きに遭いました。

しかし、彼女の考えは後の解放の神学に大きな影響を与えました。祈ったりするだけでは、神は動けない、人が行動しなければ神の意思は形にならないという考えです。

苦しんでいるのは、僕だけではない、神も共に苦しみもだえていることに気づいたのです。

そう気付いた僕は鬱の状態から徐々に解放されてゆきました。

ゼレの考え、それは神と人との共同作業だと僕は思います。

神は、僕の想像していたような「全能」なのではなく、「神自身が泣きながら、苦しみもがきながら、人間が動き出せるように力と眼差しと愛を注ぎ続けている」と思うのです。

このことは、イエスが周囲から「自分を救えない」と嘲られつつ十字架につけられたことは、苦しみもがく神の姿に重なるように思うのです。僕は決して祈りが必要ないなどとは言っていません。

また、神が無力だとは思っていません。

祈りによりみ心を知りできることをするということです。

例えば、センター主催のサロン会は、その一つです。

川岸での宣教、岸辺に住む人々との交わりの食事会は細やかなことかもしれません。

でも僕はこのことが平和を祈る祈りの具現化だと信じて働かせていただいています。

今年の川崎戸手教会では大きな変化があるかもしれない、しかし、今、ここに与えられている限りそこでの働きをしてゆきたい。暗い世の中でもがき苦しむ神と人との共同作業をそれぞれの現場で祈り行動したいものです。

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