東日本大震災から4年を迎えようとしています。受難節にあの惨劇と被災者を憶えることは、キリスト者にとって十字架のイエスのご受難を憶える事と軌を一にしています。
自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。(ルカ9.24)
主イエスは、自分を捨てる者が命を得るのだと言っています。哲学的で難解ですが、言いたいことは至って単純です。
- 主イエスの為に自分を用いなさい。
- さすれば、あなたは命を得る
- その命とは、主イエスとの関係である。
- キリスト者にとって主イエスとの関係こそが自分自身である。
これは、弟子たちのイエスを見捨てた罪と反省が、イエスの受難を憶え、イエスに従うことの意味を問い直しています。
東日本大震災から4年を迎え、次第にその関心は薄れつつあります。また震災の原因と責任を問いつつも、景気回復や東京オリンピック等が関心事となっています。
3.11を迎えようとする今週、更に主イエスのご受難を憶える受難節において、キリスト者にとって命であるイエスとの関係は、被災地と被災者との関係の回復であります。
たとえ景気が回復しオリンピックで繁盛しようとも自分の身を滅ぼしては何の得があるでしょうか?この受難節と3.11を憶える為に、イエスとの関係、即ち被災地と被災者との関係を取り戻して参りましょう。