川崎区、多摩川河川敷でおこった殺人事件の悲報に接し、人々は深い悲しみと様々な何故?を心に抱いていると思います。学校は、友人は、家族は、そして殺害された少年自身に対して何故?と。
「私」とは関係であり、あなたとの関係、帰属する集団との関係、私自身との関係。この三つの関係から私という概念が存在しています。私とは何者であるのか?それは私が持っている関係そのものであります。したがって壊れた関係を修復する(和解する)とは、失った私を取り戻すことであり、聖書のイスラエルが神との和解を求めたのも、祖国と神殿の崩壊によって失った私を取り戻すためでありました。和解とは私の回復であります。
しかし今回の事件に接し、私とは一方で関係を断ち切らねばならない場合があることを知りました。人間は私を欲します。それ故に、時には私を見いだせないでいる者が、それを欲するあまり自分を受け入れてくれる関係に埋没し、私自身との関係を偽ります。
私を取り戻すために、時には断ち切らねばならない関係があります。人々は疑問に思っています。どうして関係を断ち切ることが出来なかったのか?と。しかし子どもの世界は、大人が思う以上に狭く低く浅い。故に逃げ道など何処にも見当たらなかったのだと思うのです。これは我ら大人の責任だと私は思います。
関係を断ち切ることが出来るように、親が、大人が、そして教会が、間口の広い関係を育む重責を子どもたちに負っている事を、恐れを抱きながら痛切に感じた事件でありました。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28 )