自己批判

ゼデキヤ王の治世4年(前594年)、エレミヤは反バビロン同盟を画策する王を諌めるために、首に軛をはめて王の前に出ました。エレミヤのその軛は、バビロンの軛であり、神の裁きが象徴されていました。

しかし神殿所属の預言者ハナンヤはエレミヤからその軛を取り上げ破壊し、神はバビロンの軛を取り除き、南ユダを救済すると予言します。同じ事実を前にして、エレミヤは審判予言、ハナンヤは救済予言を語りました。

困難に差し掛かった時、人はそこから救われたいと願うのが心情であって救済予言を期待します。エレミヤのように、その困難を神の裁きとして聞くのは難しいものです。では我々は、如何にしてこれらの予言を聞き分ければ良いのでしょうか?

エレミヤは、王が公平な裁きを行わず神殿で偶像礼拝が執り行われている事を指摘し、その裁きとしてバビロンの軛を予言しました。一方ハナンヤはそのような現実には一切沈黙して救済予言を語ります。ハナンヤの予言の根拠は体制護持の宮廷神学<「ダビデの末はとこしえである」(サム下7:12-13)>でした。それは国家主義、民族主義を育て、人々から現実を直視した冷静な判断力を奪ってしまいます。

キリスト者も油断すると、贖罪論に代表される教会教理に埋没して現実を見失ってしまいます。それは言い換えるなら自己批判能力を失うことです。裁きであれ、救いであれ、神の声は、徹底的な自己批判(正直に自分と向き合う)の先にあります。そして宗教者の有る無しに関わらず、現実から逃避した自己肯定を、聖書は偶像信仰と呼びます。

神に生かされている現実にしっかりと立って聖書を読み、祈り、聖霊の導きを信じて参りましょう。

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