私の父親は1927年(昭和2年)生まれです。
歩行が若干不自由で遠いところには付き添う必要がありました。
手伝ってくれた友人の勧めで病院に連れて行ったところ末期癌で即入院でした。父は痛み止めの注射を打つしかなく、余命僅かとの診断でした。しかし、父は3年生きました。入院中、認知しょうと足の壊死方が進みました。右足を二回切断しました。いつもの父に戻る時間も少なくなりました。
そんなある日、不意に父が「一郎、お父ちゃん逝ったら地獄だよなぁ・・・」と言うので、「そんな事あるわけないじゃん」わたしは思わず言いました。「そうなのか?」父はわたしを見つめます。私は「大丈夫」と言いました。なぜか確信がありました。父の表情は和らぎました。その時に私の脳裏を過った言葉、それは創世記3:19「お前は顔を流してパンを得る・・・塵に過ぎないお前は塵に帰る。」でした。
私はその時まで人は罪の結果、塵に返る空しい存在を言っていると思っていました。でも、その時、私はそうではない!神に造られた私達は、塵となりキリストによって神に返されるのではないかと信じるようになったのです。それは死んでから返るというのではなく、体の機能や記憶などが徐々に神様に返されるのではないかと思うようになったのです。
私は老いること、それは神様に返してゆくことだと信じるようになりました。返してしまうのだから、この世では助けが必要です。神様はそのことを望まれていると信じるようになりました。川崎戸手教会にも重なるものがあると思います。
私は主イエスが命と向き合う食卓の交わりに私達を招いていると信じるのです。人は歳を重ねながら造り主である神に頂いたものを返しています。頂いた命が続く限り、それを補う助けが必要です。そのために祈り、それぞれにできる行動を起こして行きたいものです。