先週の月曜日、次女の中学校入学式に参列しました。川崎朝鮮初級学校の保育園入園以来9年間、7〜8名のクラスで同窓生と姉妹兄弟同様学び続けてきた娘にとって一学年254人、36人学級は、只々その数に圧倒されるばかりで、娘が米粒のように小さく見えました。
そして当然の如くその瞬間がやってきました。入学式開式の辞。全員の起立を求められ、つづいて「国歌斉唱」(君が代)。私と妻は着席しました。しかし、その時不味いと思ったのは妻が民族衣装を着ていたことでした。「国歌斉唱」を着席する事に寸分の躊躇いや恐怖を感じることはありませんでした。それは宗教的信仰上の理由、即ち「信教の自由」と民主主義の尊重が起立と斉唱を拒否したのです。しかし周囲の人には朝鮮人が日本とその国歌を拒否していると映ってはいないだろうかと危惧したのです。
そこには、君が代を拒否する私と、朝鮮人として日本人と仲良く共生していきたいと願う私がいました。しかし「国歌斉唱」を着席した時に、謀らずも「チマチョゴリは不味かった」と思う私が顔を覗かせたのです。即ち朝鮮人に対する敵意とまでは言わないまでも不満を煽る結果になったのではないかと。朝鮮人の看板を背負って公立中学に入学した娘とその保護者となる私たち夫婦に朝鮮学校時代とはまた異なる茨の道が脳裏を過りました。
3年など、大人しく過ぎ越してしまえば良いだけの話なのかもしれませんが、この性格が良きにつけ悪きにつけ、黙ってはいられないその時に遭遇するのは時間の問題かもしれません。しかし我が心中にある敵意に勝り、十字架と復活の主イエス・キリストの神の御心である真の和解を目指しているものであることを寝ても覚めても忘れることのないように、この性格とやらを戒めて下さることを神に祈るばかりで御座います。