終末の完成をめざして

エレミヤは70年後の解放(29章)の予言に続いて終末の完成(30章)を予言します。年齢的に70年後の解放に預かれない人にとってそれでも捕囚の地で生きる意味と目的をエレミヤは語ろうとしています。それは自分がその救済に加えられる事の可否以上に究極的な神の救済史に参加する使命の重要性であります。

私たちは差別・貧困・戦争のない神の国の実現を信じ願っています。しかしその完成された世界を見ることなく私たちは生涯を終えるでしょう。だからといってキリスト者はその願いを放棄し残された時間を自分の腹を満たすだけに用いることはしません。目の前の断片とも言える一つ一つの救済の物語の積み重ねが、神の国の完成へと向かいます。そこに救済とは私的救済に留まることなく、神のみ心の完成であり、それは世界と万物の平和であり、更にそのご計画に参与する人生が私の喜びであり救いであると信じていきたいのです。

エレミヤはその救済予言で次のように語ります。「わたしはお前を正しく懲らしめる。罰せずにおくこと決してしない。」(30.11b)。救済予言の中に懲らしめと裁きという言葉を見るのは珍しいことです。神の救済とは裁きの対義語ではなく「裁きから解放」へという一連の経験が新しい歩みへと導き、それが救済であるということでしょうか。神の裁きは報復ではなく、救いへ至る正しい懲らしめであります。

神の国をめざして、人間は神に導かれ救いの物語を繰り返していくのでありましょう。即ち人間は繰り返し過ちを犯すということです。70年という年月を経て日本は再び同じ過ちを繰り返そうとしています。偽預言者の言葉に惑わされることなく、憲法9条こそが攻撃から守り、米国の戦争に巻き込まれることのない事を訴えて参りましょう。

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