先週、アメリカ議会で演説する彼がピエロに見えたのは私だけでしょうか?そしてその背後には、彼を議会で気持よく喋らせて上げるサービスを提供するまでに、自国のお衰えと中国台頭に焦りを禁じ得ない米国の本音が見え隠れしました。
まるでヤクザ映画のいちシーンに観る「ええか、務所から出てきたら幹部の椅子が待ってるからな・・・」と言われて、その話に夢を抱き将来の自分の勇姿を妄想しながら喜んで鉄砲玉になろうとする若きチンピラと彼が重なって見えたのは、やはり私だけでしょうか?
彼の演説の翻訳全文がインターネットで紹介されていました。読むに耐えず、論評に値しない軽薄な内容でありましたが、彼はそこで「平和」という言葉を12回持ちています。
地域の平和、平和の苗床、永続的な「平和と繁栄の地域」、戦後世界の平和と安全、平和維持活動、平和的手段、積極的平和主義、一層確実な平和を築く、等
そして、その背後で彼がしていることは、集団的自衛権の行使、辺野古基地建設、原発推進であります。
このような彼の演説を通じて感じるのは言葉の終焉であります。彼によって言葉が本来持っていた指し示す方向や洞察や慰めや力や希望等というものが、事実を自分勝手な角度から映し出すトリックアイテムに変質してしまったように思えます。改めてこれこそが自由主義史観の完成形なのでしょうか?
もう何を聞いても信じられませんし、何を言っても言うだけ虚しいのです。それはまるで映画ネバーエンディングストーリーに出てくる虚無の闇が背後から追いかけて来て、その闇がことごとく言葉を虚しくしていき、私はその闇から逃れて数少ない生きた言葉を探し求めている感じです。でもそれは既に敗北です。虚無の支配の及ばない限られた世界で語るのは、荒廃した大地から逃れて心地よい楽園を求めるようなもので、そしてその楽園もいつか虚無に飲み込まれてしまうのです。
もしかしたら自由主義史観は戦後希望の光を灯した実存主義を飲み込んだのでしょうか?即ち戦争によって客観的真実を失った人々に、自分自身の手で真実を見つけ創造していこうする希望・・・。その希望を自由主義史観が「これも私の真実ですよ〜」と絡めとり飲み込んで行っているようです。
全て彼のせいです。彼がこんなとんでもない虚無を作り出し、言葉を虚しくしてくれました。日々聞くに疲れ、語るに虚しさに苛まれる。全て彼のせいです。でも本当のところ彼とは誰なのでしょうか?このような虚無を作り出している彼とは?その正体は?一体何なのでしょうか?
しかしながら、それでも語っていかねばならない。耳を傾けて行かねばならない。今はまだぼんやりとしか見えないけど、虚無に対抗する本物の言葉があると信じて歩んでいくしかありません。