「重荷を記憶して仕える」 瀬山一郎伝道師

川崎戸手教会では毎週水曜日、高齢者サロンという地域の高齢者を迎えての食事会があります。私を含めてボランティアスタッフは、参加する高齢者を出迎えるところから対応が始まります。台所にいながらも玄関に目を配り、誰が入って来るのか見ながらの仕事です。

参加者は同じ人でも、その時その時で体調などで様子が違います。

参加者のある人は、調子が悪くて手伝いが必要な時は声をかけてくれます。

私は、本人から必要とされるまで見守ることにしています。

ボランティアスタッフで長い人は、とっさにサッと対応します。わたしはまだまだ、そこができません。声をかけられるのを手を動かしながら待つしかありません。

そんな時に思うことがあります。それは、「私はまだまだだなぁ」ということです。

何が「まだ」なのでしょうか?それは、その人と関係ができていないということです。

もっと交わりを深め、その人の負っている重荷を担って行きたいと思うのです。

ずいぶん以前のことですが、私は、ある人から「その人の重荷を担う」ということは「その人の重荷を記憶する」ことだと教えてもらったことがあります。それは、その人の重荷を知り記憶して一緒に祈るということでした。では、ここでの「共に祈る」とはどういうことなのでしょうか。それは、その人を支え仕えるということです。

私は「高齢者サロン」の食事会を通じてこの川崎戸手教会で学びました。祈ると言うと抽象的になってしまうけれど、仕えるということでより具体的になります。とはいえ、私はまだまだです。

躊躇してしまうし、失敗を恐れてともすると立ち止まり掛けたりします。

そんな状況だけれども、今、何とか皆に支えられながら続けさせて頂いています。主イエスが私たち一人一人のために血を流して重荷を担われたように私たちも互いにその人の重荷を記憶して焼き付けて仕え合ってこの一週間歩んで行きましょう。

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