水曜の聖書の学びと祈りの会はマカバイ記を終えてルカによる福音書の学びに入りました。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」
(ルカ1.45)
これは受胎告知を受けたマリアに対するエリザベトの祝福の言葉であり同時に信仰告白です。神のみ心を信じることはキリスト者にとって幸いであり希望であります。しかしこのエリザベトの告白の背景を踏まえるならば決してそれは自明のことではありません。我が身に起こった思いもよらぬ事態は不安と絶望に満たされているものでした。そこで「幸い」を告白する所にこの告白の真意があります。
一昨日、駅前で宝くじを買い求める行列を見ました。6億円という夢の様な金額が書かれたノボリがなびいていました。「ああ、6億円あったら大体解決するのにな〜」と、ふと独り言を言ってしまい、脳裏では再開発された河原の街に建つ川崎戸手教会を思い浮かべてしまいました。
人は自己実現を夢見てそこに幸いを得ます。しかしお金は使えばいつか無くなるもので、教会は自分の望む所に建てられるものではありません。そういったものを幸いとするなら、それはいつか朽ちるものであります。
マリアは「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1.38)と応答しました。それは人の幸いに照らすならば明らかに不幸であり悲しみであります。人間は「人生思うように行かない」という壁に何度もぶち当たります。しかしそれが人から見てどうであろうと「御心が実現していく」その事を信じる者は普遍的な幸いを得るのです。これは説明の限界を超えたものであり、不安と絶望の淵でのみ出会うことの出来る真の幸いであり朽ちることのない希望でます。主のみ心がなりますように・・・・。