使徒言行録とは使徒たちの言葉と行いの記録です。しかしその本質は彼らを突き動かした聖霊でありその聖霊の働きの記録が使徒言行録です。
聖霊に満たされた使徒たちが語りだした時、人々に恐れが生じたと使徒言行録は伝えています。新しい何かが始まる時、そこには期待と不安が生じます。しかし聖霊の働きによるそれは、単に新しいものの始まりに留まらず、古いものが壊されていく事よって生じる恐れです。そして聖霊とはその恐れを乗り越えていくものだと思うのです。
そこには「誰でも」という言葉が強調されています。それは民族、性別、階級、そのような枠を壊していくものであり、それが人々に恐れを生じさせました。私たちはクリスチャンです。しかしそうは言っても厳密には一人ひとり違った信仰を持っております。それは救いとか恵とか、また平和とか、そのようなものが同じクリスチャンでも微妙に違うものです。そして信仰の違いが互いに摩擦を生みます。その摩擦の内実は自らの信仰を押し付け合う行為であり、それは恐れから逃れようとする行為であると言えます。
きっとその恐れの向こう側に豊かさがあるのでしょう。誰を問わず皆が持ち物を共有しあったあの豊かさが恐れの向こう側にあります。即ち、聖霊とは人間を豊かさへと導いてくれるものかもしれません。
聖書の時代を生きた人々は聖霊に満たされ、日常的に聖霊を肌身で感じて生きていたと思われます。しかし残念ながら現代人はその感覚が退化しました。故に私たちは聖霊を言語化しなければなりません。言語化は限界を伴いますが、しかしその努力に怠慢となり、聖霊という言葉を口にすればそれですむという訳にはいきません。聖霊降臨節を歩むこの時、聖霊とは何か?自らに恐れが生じる度それから逃げるのではなく、それと向き合いその都度言葉にして参りたいと思います。そしてまた一歩、豊かになって参りましょう。それが聖霊降臨節を生きるということではないでしょうか。更にこの聖霊降臨節を歩み終えた時、自分がどれほど豊かにしてもらえたか?そこに聖霊の働きを、私たちも肌身で感じ取りたいものです。