言葉に実存を

エルサレム陥落一年前のこと、エレミヤは王家の監視の庭に監禁されていた。そこにハナムエル(エレミヤの親戚)が借金で差し押さえられたアナトト(エレミヤの故郷)にある自分の畑をエレミヤに贖って欲しいと訪ねてきた(土地の贖い:レビ25.25-31)。

本来、親戚筋であるなら監禁されているエレミヤの救済に保釈金を持参するのが筋であるが、監禁されているエレミヤに「土地の贖い」を願い出いるとは如何なることか?エレミヤの心中を察して余りある。しかしエレミヤは購入証書にサインして「贖い」の責任を果たした。

エレミヤは既に南ユダがバビロンに滅ぼされる事とバビロン捕囚を予言している。しかし同時にエレミヤは70年後の救済も予言している。エレミヤにとって預言者とはその言葉に自らの実存を示さねばならぬものと理解していた。

即ち、近い将来価値を失う土地、更に捕囚としてこの地を去らねばならない者が、その土地を購入するのは愚かである。しかし自らの救済予言(やがて戻ってくる)に対する節操を保つならば、それを贖わなければならない。エレミヤにとってアナトトの土地を贖うことは、やがて神がイスラエルを贖って下さるという行為予言となった。

それにしてもそれは70年後の事である。エレミヤ自身が再びその土地を所有することはあり得ない。しかしエレミヤは主の言葉を語る

「私は彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫とって幸いとなる」(32:38)。

即ち、自分自身のためだけではなく子孫にとっての幸いの故に、エレミヤは贖いの務めを果たしたのである。

先週は、安全保障法案、原発再稼働等、色々あったが、そこには将来と子孫らに対する責任の欠片もない。全ては今ある自らの腹(経済)を満たすためのものであって節操もなく無責任極まりない。

今や「I am not ABE」とい言うなかれ。民主主義は主人である民に、憲法で保証する選挙という剣を与えている。

「I am not ABE」と言うならば、有権者はエレミヤのごとくその言葉に実存を込めれば良い。そして尚、今の政権が継続するならば、それはABEの問題ではなく、ABEは紛れも無い民意(多数)なのである。それをABE一個人の責任するのは、それこそ節操極まりないと、監禁中にアナトトの土地を贖ったエレミヤは嘲笑うでしょう。

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