「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります。」(ヤコブ1:25)
この言葉は、「信じているのだから救われる」と律法や行いの実践を軽視していたキリスト者たちに対して語っているのです。
一人一人に恵みが届くように、神と人に喜ばれる生活、歩みをしようと心がける時、ちょっとした些細な言葉や行動が重要な働きをしていることに気付かされます。
何気ない一言で人を傷つけてしまったり、思いがけず喜ばせたりします。
そのような中で「み言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1:22)と語られると自分はどのような言葉に生かされ、人に話しているのか接しているのかを考えさせられます。
自分のことを言われているように思うのです。
私にとってこの言葉は自分に向き合うことなのです。
22節にはみ言葉を聞くけれど行わない人の話が出ています。
「その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。」とあります。
この鏡はユダヤ人の律法を例えたものなのです。この鏡は自分の嫌な醜い姿と本来あるべき姿が映し出される鏡なのです。私は寝起きの自分の顔を鏡に映して観るのが嫌です。
顔を洗い髪を整えさっぱりした顔を好みます。生まれつきの醜い自分の姿はさっさと忘れてしまいたくなるのです。でも、寝起きの醜い顔を見なければ整えられません。
これが信仰生活だと覿面に出てきます。
22節の後半自分を欺いて聞くだけで終わるものになってはいけません。
自分にとって嫌な醜い姿。誰もが見たくない自分の姿。私は、誰かに何か言われると言い訳から始まる悪癖があります。鏡から去って忘れて欺く者ではなくて率直に返せるように努力します。返事が少し遅れるかも知れません。頭で変換するのでお許しください。ご一緒に率直にみ言葉を行って行きましょう。